真一文字の会、そして国立講談三夜第一夜

「真一文字の会~春風亭一之輔勉強会」に行きました。国立劇場ファイナル特別公演だ。国立劇場全体が10月いっぱいで建て替えのために閉場することにともない、先月、“初代”国立演芸場で最後の真一文字の会が開催されたばかりだが、きょうは“初代”国立劇場小劇場での「本当に本当の」さよなら公演である。

一之輔師匠の勉強会「真一文字の会」は、師匠が二ツ目の頃からスタートし、日暮里サニーホール、内幸町ホールを経て、平成26年12月から国立演芸場に会場を移した。そして、来月からは日本橋公会堂での開催になる。

きょうは「明烏」と「らくだ」の二席。

週刊文春の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」のインタビューのときに、大学時代は勉強していなかったのですか?と問われ、そういえば課題で“ラジオCM”を作るというのに取り組んだことを思い出したそうだ。JR御徒町駅から徒歩3分のところにある某風俗店のCMを勝手に作って、教官に褒められたとか。内容詳細は書かないが、大学生の頃から一之輔師匠の落語センスの片鱗を感じるエピソードだった。そのマクラから、「明烏」に入るセンスも最高だ。

一之輔師匠の「らくだ」は喜怒哀楽がいっぱい詰まっている。兎に角、丁の目の半次が怖い。この人とらくだが兄弟分だったと考えると、生前のらくだの怖さもイメージが膨らむ。屑屋の久さんを働かせるために、「自分の子どもの顔を今のうちに拝んでおいた方がいい」とか、「自分で自分のハラワタを見たことがあるか?意外と綺麗だぞ」とか、脅しの台詞がいちいち凄い。自分は丁の目の半次だと名乗ってから、「俺の名前、言ってみろよ」と脅し、久さんが「チョロチョロの半助?」と答えてしまうのは、それだけ怯えていたからだろう。

長屋の衆、とりわけ大家が“らくだが死んだ”ことを知ったときの喜びようが、らくだの生前の凶暴性を表わしている。「だるまさんがころんだ?」とか、「それは屑屋の符丁か何かか?」となかなか信用しないのも、それゆえだ。本当に死んだと判ってからは、「河豚祭りだあ!」と狂喜乱舞するあたり、本当に困り果てていたのだなあと思う。「死にゃぁ、仏だ」というものの、やっぱり死んでくれて嬉しかったというのが本音だろう。

屑屋の久さんがらくだから受けた屈辱、悔しさは並大抵のものじゃないと思う。揃いの丼に「長寿庵」と名が入っていたりとか、左甚五郎が彫った蛙がピョンピョン跳ねたりとか、ふざけるな!と思うが、腕力で叶わない。反抗すると、殴られて、泣きながら帰宅すると、5人兄弟の一番上の娘が「私が働きに出たら、少しは楽になるのに」と父親を慰めてくれるあたりなど、人情噺か?と思うくらい泣けてくる。

やっぱり、社会の厄介者だったらくだは死んで良かったのだ。天罰が下ったのだと僕は思う。

夜は国立演芸場で「国立講談三夜」の第一夜を観ました。講談協会、日本講談協会、なみはや講談協会の三派の会だ。

「名月若松城」一龍斎貞鏡/「応挙の幽霊画」神田陽子/「中村仲蔵」一龍斎貞心/「水戸黄門記 出世の高松」神田松鯉/中入り/「無名の碑の由来」旭堂南鱗/「赤垣源蔵 徳利の別れ」宝井琴調

貞鏡さん。九州征伐の岩石城攻略で立てた手柄を我が物顔にしている蒲生氏郷に対する家来の西村権四郎の腹立ち、ごもっとも。実際に氏郷は馬で逃げて、権四郎が敵を成敗したのだから、恩賞を与えるくらいのことをして然るべきだろう。主君が伊勢松坂30万石、さらに会津若松92万石と出世していくのを見て、権四郎はさぞ悔しかっただろうし、人間不信に陥ったと思う。最後は相撲勝負に勝って、和解してハッピーエンドだが、腑に落ちない。

貞心先生。仲蔵の出自の詳細が判って興味深かった。長唄の太夫、中山小十郎と女房の間に子宝に恵まれなくて、女房が毎月願掛けに行っていた帰りの渡し船での船頭との出会いが発端だ。船頭には5人の子どもがいる上に、妹夫婦が死んでしまって預かっている息子がいるという。

見れば、4、5歳の可愛い男の子。この子を貰い受けることにした。長唄を仕込もうとしたが、小十郎が「役者の才」を見抜いて、中村伝九郎の弟子にしてもらった。これが後の仲蔵である。単純に「血筋がない」と言葉で片づけるのではなく、こうして筋立てで聴くと、よりイメージが膨らむというものだ。

松鯉先生。後に徳川頼房となる鶴千代が屋敷奉公していたおしまを懐妊させた。後日の証拠にと渡した書付、短刀、香木の蘭奢待(らんじゃたい)。元気な男の子が生まれたが、おしまは産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまった。引き取った叔父の宗右衛門夫婦が寅松と名付け、育てた。

食うや食わずの極貧の生活でも、唯一売り飛ばすことのなかった、おしまが大事にしていた“後日の証拠”。これによって、寅松は水戸様の御落胤であることが判った。そして、徳川頼重として讃岐高松12万石の城主になったという…。宗右衛門夫婦が何の欲もなく、愛情をもって育てたことが、寅松の出世に繋がったのだと思うと、微笑ましい。