浪曲、そして講談。
日本浪曲協会正月定席六日目に行きました。浪花節は一声、二節、三啖呵だなあと、つくづく思う。リズムとメロディが非常に大切で、音程が不安定だとストーリーが頭に入ってこない。逆に言うと、気持ち良く聴かせてくれる浪曲は、ストーリーがくっきりと頭に入り、情景が浮かぶ。当たり前のことかもしれないが、木馬亭の定席で7人の浪曲師の高座を聴いていると、毎回それを思う。
「阿漕ケ浦」玉川奈みほ/「左甚五郎 京都の巻」富士綾那/「水戸黄門漫遊記 尼崎の巻」港家小そめ/「からかさ桜」広沢菊春/「ライト兄弟」玉川奈々福/中入り/「金色夜叉 熱海の梅林」宝井琴星/「君が代ができるまで」鳳舞衣子/「萩の餅」三門柳
富士綾那さんの左甚五郎伝、とても良かった。昔お世話になった棟梁の藤兵衛、そして藤吉への恩返し。藤兵衛の病気を名医に診せて、ゆっくり有馬温泉で湯治すれば良くなると聞いて、十分すぎる金を渡して湯治させる心遣いが優しい。それに引き換え、藤兵衛の女房と一番弟子の仁兵衛の不義、そして独立は裏切りだ。許せない。
甚五郎に知恩院普請の依頼があったときも、仁兵衛は京都の大工に手伝わせないように手を回した。嫌な奴だ。でも甚五郎はドーンと構えて、江戸の大久保彦左衛門に手紙を届け、大工の政五郎以下、50人の江戸の若い大工が京都に助っ人に駆けつけた。ざまあみろ、だ。甚五郎の大物ぶりが良く伝わる高座だった。
主任の柳先生、信州の民話を元にした浪曲だそう。兎に角、紀伊國屋金次郎の放蕩三昧は酷い。親が死ぬと女房を離縁し、後妻に花街のお秋を迎えるだけでも、人間的にどうかと思うが、もっと酷いのは、成田の旅籠に泊まったときだ。出てきた女中のお花の余りの醜さに、からかって夫婦の契りを結んでしまう悪戯。
それを本気にしたお花は江戸に出たときに紀伊國屋を訪ねるが、金次郎は番頭と結託して自分は死んでしまったことにして、逃げる。純情なお花はそれを信じ、持っていた50両を回向料として渡すが、それも遊興に使ってしまう。
でも、悪事ばかり繰り返すと、天罰が下る。小伝馬町の火事で紀伊國屋は丸焼けに。で、お秋と番頭は駆け落ち。独り取り残された金次郎は母の在所である信州へ向かうが、無一文で食うものに困り、飢え死に寸前で倒れる。妙寿庵という寺で餅がふるまわれると聞き、訪ねると、餅を持った尼は何と、お花だった!金次郎の供養のために尼になっていたお花の純情よ。そして、仏の慈悲をもって、金次郎を許すのだから、どこまでも心の清らかな人だ。金次郎とお花は夫婦となり、蕎麦屋を開いたという。外見の美醜よりも、心の清らかさが大切であることを教えてくれる高座だった。
夜はイイノホールで「神田伯山 新春連続読み 天明白浪伝」初日へ行きました。初日は前夜祭ということで、「お楽しみ」三席。この三席を聴くと、伯山先生は講談の基礎をしっかりと守りながら、いかにその魅力を分かりやすく大衆に伝えるかに尽力していることがわかる。そこには、落語的な笑いや会話の技法が駆使されていて、「小難しそう」と思われがちな講談を「親しみやすい」演芸に変換している努力が垣間見えるような気がする。
一席目は「曲垣と度々平」。開口一番に出た弟子の梅之丞さんが「寛永三馬術 出世の春駒」を読み、その続きとして、この読み物を読んだ。愛宕山で名を上げた曲垣平九郎はとてもカッコイイが、この度々平とのやりとりで、曲垣が人間味溢れる人物だということを滑稽味満載で伝えている。これって、落語?と思えるくらいに笑いに彩られた読み物になっていて、連続物でも登場人物のキャラクターが一話一話で異なることもり、それが連続物を聴いても飽きない、魅力の一つなのかもしれない。
二席目は「浜野矩随」。伯山先生は最後に母親が自害するところで、死んでしまうバージョンと、寸でのところで助かるバージョンの両方とも読むことがあると言っていた。今回は新春のおめでたい会ということで、母親は死なないバージョンで読んだ。でも、母親が自害してしまう演出にした方が、矩随が一所懸命、彫り物に魂をこめる仕事をして、名人になったという信憑性が高まるとも言っていた。なるほど、と合点がいった。
三席目は「徂徠豆腐」。若き日の荻生徂徠、惣右衛門という名を最初から出して読む。落語や浪曲では、この貧乏学者が誰なのかを明かさずに、「冷奴の先生」としてストーリーを進め、火事で焼き出された上総屋七兵衛のために豆腐屋を一軒建ててあげるところで、初めて荻生徂徠の名を出す演出が多いが、荻生惣右衛門の出世談として読む講談はこの演出が相応しいと感じた。
細かいところで言うと、一文無しがばれて、冷奴の代わりにおからの煮たのを持ってきてあげましょうと上総屋は提案し、持って行くことにするが、女房が何をしているのか?と問い質して、それなら握り飯を持って行ってあげなさいよと提案する。そして、実際に持って行ったところで、惣右衛門が「商売物なら後にお代を返済することができるが、握り飯ではできない」と断る。この理屈も非常に合点がいって、落語との演出の違いを楽しむことができた。もちろん、講談が先で、落語は講談を落語化したものだし、講談師や落語家によって演出も違うだろうから、一概には言えないけれども。
現代に通用するエンターテインメントとしての講談の道を切り拓いている神田伯山先生の弛まぬ努力に頭が下がる思いがした。