【アナザーストーリーズ】立花隆vs.田中角栄(1)
NHK―BSプレミアムの録画で「アナザーストーリーズ 立花隆vs.田中角栄」を観ました。
2021年4月に他界した立花隆。宇宙からサル、がんの研究まで何でも知ろうとした知の巨人。その立花隆が若き日に立ち向かった相手とは…1972年、断トツの支持率で就任した総理大臣、田中角栄。このとき、まだ54歳の若さで、今太閤、庶民派宰相と呼ばれ、人気と実力を兼ね備えたニューヒーローだった。
しかし、一方でカネをばらまく金権政治が批判の的になる。この政権を退陣に追い込むきっかけは、「文藝春秋」1974年11月号の記事、「田中角栄研究」。当時34歳の立花隆の渾身のリポートだ。立花は画期的な調査方法で田中金脈の実態を徹底的に暴いた。まさに元祖文春砲。しかし、当初マスコミはこの記事にほとんど関心を示さなかった。また出版前に政権からの働きかけがあった事実も明らかになった。
時あたかも、ワシントンポストがウォーターゲート事件をスクープし、ニクソン大統領を引きずり落した2か月後のこと。日本の政治報道に一石を投じた。立花隆の「田中角栄研究」はいかにして生まれたのか。そして、総理退陣までの間にどんなドラマがあったのか。番組では、立花隆vs.田中角栄を軸に詳細に取材、構成している。
昭和を象徴する総理大臣、田中角栄。今太閤、コンピューター付きブルドーザー、そして闇将軍とも呼ばれた。その巨大な権力にペンひとつで立ち向かったのは、当時まだ無名のルポライター、立花隆。立花が暴いたのは田中角栄がひた隠しにしていた謎の金脈だった。
自民党への企業や業界団体からの政治献金を比べると、田中政権のときだけ、179億円と桁違い。なぜ田中角栄だけがこれほど巨額の金を動かすことができたのか。
1974年10月9日。この日、「田中角栄研究」が世に出た。記事が掲載されたのは「文藝春秋」11月号。立花隆と文藝春秋が放った一撃は、田中政権を大きく揺るがした。まさに文春砲。その後のジャーナリズムの在り方を変えた、調査報道の金字塔だ。
立花隆は仲間とともに僅か一カ月でこの記事を書き上げた。その秘密は常識を覆す立花ならではのリサーチ方法だった。ペンの力で敢然と権力に立ち向かった男の物語だ。
東京目白台運動公園。ここはかつて田中邸の庭の一部だった。今は区のものになっているが、隣には田中邸が今もある。50年前、ここには陳情する人々が全国から押し寄せていた。多い日は200人以上。時間を区切って、即断即決。「政治とは欲望の調整作業だ」(田中角栄談)。
1972年7月、田中内閣発足。総理大臣に就任するや、その2か月後には懸案だった日中国交正常化を実現。友好のシンボルとしてパンダが贈られた。そして、自身の掲げる「日本列島改造論」を基に遅れていた地方への交通インフラの整備を推し進めた。人々に喜ばれる。それが民意。それが田中流のデモクラシー。だが、一方で公共事業の利権に業者が群がり、金権政治だと批判を浴びた。かつてないほどの政治献金の額も増えた。
1974年。田中政権2年目の夏のこと。総合月刊誌トップの60万部を誇っていた「文藝春秋」。その敏腕編集長、田中健五は34歳の立花隆と再会する。立花は文藝春秋社を辞めた後、フリーライターとしてメキメキと頭角を現していた。「週刊現代」で書いていた角栄の記事が突如打ち切りという憂き目に遭っていた矢先のことだった。何気ない立ち話で、閃いた直感。田中角栄のカネの問題を提案。ゴーサインが出た。
時間がなかった。締め切りは一カ月後だった。早速、編集部員と取材スタッフが集められた。
江藤淳など大物作家を担当する編集部員だった斎藤禎も取材チームに参加した。
立花さんは当時からすごい先輩だってことは思っていました。文春の校閲部には有名な方がいたんですよ。その人達が立花っていう人はすごかったと。すごい原稿を書くし、正確だし、文章は上手いし、構成もちゃんとしているし。できたら立花さんみたいな人を目指しなさいと言われましたね。
特筆すべきは立花が採った調査の方法だ。よくあるスクープとは、特別な証言や暴露によるもの。これは人物探しがカギとなる。しかし立花は違った。物的証拠をしらみ潰しに探しまくった。チーム全員が四方八方へ飛んだ。
つづく