一龍斎貞寿「次郎長と伯山」松廼家京伝と三代目神田伯山の心の交流が素晴らしい

らくごカフェで「一龍斎貞寿の会」を観ました。(2022・04・09)

貞寿先生が、「清水次郎長伝」の第1話「次郎長の生い立ち」と第2話「心中奈良屋」を続けて読んだ。本来、一龍斎は侠客物は読まないことになっているという。お家芸の赤穂義士伝は武士の口調であるから、侠客物を読むと言葉が荒れるからだそうだ。だが、真打になったらある程度の自由は許され、貞寿先生は尊敬する神田愛山先生から教わっているという。第3話を近々、稽古をつけてもらう予定だとか。

で、中入りを挟んで読んだのが「次郎長と伯山」。これは、村上元三先生が六代目貞丈先生のために、ラジオ放送用に書いた作品だそうだ。だから、今は弟子の貞心先生と孫弟子の貞寿先生だけが読むことを許されているのだという。「清水次郎長伝」が出来るまでを知る、大変に興味深い読み物だった。

この読み物の主人公は松廼家京伝という売れない旅回りの講談師である。次郎長と親交があり、次郎長の晩年に訪ねたときに、「俺の生涯を講談にしないか」と請われた。すでに、新聞記者だった天田愚庵が「東海遊侠伝」という書物にまとめていたが、これを基に講談にしてくれと依頼された。

京伝は「東海遊侠伝」を読み込み、次郎長の子分たちに取材し、「点取り」(あらすじメモのようなもの)にまとめた。そこから創作をし、講釈場に掛けたが受けない。面白くないのだ。売れない京伝は体を壊し、寄席の下足番をやっていた。

だが、京伝の偉いところは、そこで諦めないということだと思う。自分には才能がない。だが、次郎長の生涯を講談にしたい。そこで、当時、有望だった若手講談師の神田小伯山に、託した。自分のまとめた点取りを渡し、「これを面白いものに作り上げ、演じてほしい」。

小伯山は引き受けた。そして、京伝を近所に住まわせ、面倒を見た。やがて、小伯山は三代目神田伯山を襲名。何か月もの興行をおこなった。京伝は酒の上で乱暴を働き、警察沙汰になったが、伯山が身元引請人になった。だが、そのうちに京伝は居づらくなって、行方不明になってしまった。

三代目伯山は、次郎長一代記を講談に仕上げた。「森の石松」という架空の人物を登場させ、工夫を重ねた読み物にした。これを講釈場に掛けると大評判。「名も高き富士の山本」というタイトルで読んでいたが、誰となく「清水次郎長伝」と呼ぶようになり、それが正式タイトルになった。「次郎長の伯山」と二つ名が付き、他の寄席のお客を奪うものだから、「八丁荒らし」とも呼ばれた。

次郎長の十七回忌。伯山一行は熱海を旅していた。そこの宿屋で偶然にも、行方不明だった京伝と再会を果たす。京伝は宿屋の風呂番をしていて、すっかり痩せ細っていた。伯山は京伝に「次郎長伝」を聴かせたいと思った。

地元興行主に話をつけ、3日間の熱海公演が決まる。連日満員。京伝は後ろの席で、ジッと見つめていた。そして、伯山に「よくぞ、こんなに面白い読み物にしてくれた」と御礼を言う。すると、伯山も「これが出来たのもあなたのお陰です」と京伝に感謝の言葉を述べる。何と、美しい姿ではないか。

東京に戻った伯山の元に、京伝の死が伝えられた。寄席の高座に上がった伯山には、後ろの席に京伝が座っているのが確かに見えた。きっとあの世から、聴きに来てくれたに違いない…、伯山はそう思った。

「清水次郎長伝」にまつわる、良い読み物を聴いた。