【アナザーストーリーズ】そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~(5)

NHK総合テレビの録画で「アナザーストーリーズ そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~」を観ました。

きのうのつづき

勘三郎の挑戦の一部始終を間近に見続けたのが、二人の息子、中村勘九郎と七之助だ。

視点その3「息子たちが見た真実の勘三郎」

二人の息子は父が遺した平成中村座を引継ぎ、日本の津々浦々から世界まで歌舞伎を広げようと奮闘している。

浅草待乳山聖天。初めて平成中村座の小屋が建った隅田公園の真向かいにある寺に彼らはしばしば参拝する。歌舞伎界期待の役者に成長した勘九郎と七之助。「父は中村座に限らず、歌舞伎座やコクーンの初日に必ずここにお参りにきていました」。

父はいつも彼らの中にいる。

七之助が語る。

芝居に出るときも、父だったらどういうふうに言うかなとか、今日のお芝居だったらどういうふうに言われるかなとか、兄も私も思っているので。

勘九郎が語る。

歌舞伎をやっていたからあんなに早く死んじゃったようなもんじゃないですか。本当にやりたい役いっぱいあったと思うし。今、自分は生きているんですから、やらないとバチがあたる。

2005年。勘九郎から十八代目勘三郎を襲名した。そのとき、50歳。異例の三か月、襲名披露興行が行われた。

七之助が言う。

父はすごく破天荒で、新しいことをしていかなくちゃいけないっていう人だって思われがちなんですけど、実は古典が大好きで、「もう俺は古典だけでやっていきたいんだよ」と言っていた人なので。

歌舞伎の伝統に抗ってきたように見える勘三郎は、実は伝統や古典をこよなく愛する男だったというのだ。

勘九郎が言う。

酔って、俺、本当は毎月「鏡獅子」を踊っていたいんだよって言ってました。古典を愛していましたね。映像とか、書物とかに残っている歌舞伎を研究して、「雅行、見てごらん。すごいなあ。できないよ」と言って、その型を追求していました。その芝居、息、間、おこづき。古典のものを尊重して、今を生きている歌舞伎をお客様に見せる。そこをずっとしていたのかもしれないですね。

勘三郎は先代から厳しく古典の型を叩きこまれて、中村勘三郎になった。その彼もまた、子供達には型を厳しく仕込んだ。

勘九郎が言う。

「目はぱっちり開けて」と、祖父が父に言っていた同じことを、私たちにも言っていました。そして、今、私が子供たちに言っています。やっぱり、気になるんですね。

歌舞伎の定型を打ち破ることと、伝統を守ることは矛盾しないと身をもって示してきた勘三郎。襲名以降は、派手な演出を控え、伝統的な演目を型通りに演じるようになっていった。

だが、誰もが歌舞伎界を背負うと期待した矢先、勘三郎は病に倒れた。

2012年12月5日、逝去。享年五十七。

家族と一緒に最期を看取った大竹しのぶは語る。

もうお話ができなくても、それでも目で踊ってたりとか、扇子を投げるみたいなことをやったりとか、首で踊ったりしてましたし。やっぱりそれは生き切ろうとした彼の生きざまの一つだと思うし、それも格好良かったと思いますね。

平成中村座は勘九郎と七之助に引き継がれた。父の遺志を継ぎ、アメリカ、ヨーロッパまで足を伸ばし、誰でも楽しめる演劇であることを伝えている。

中村屋一門の巡業で、歌舞伎を観たことのない人にも観てもらいたいと毎年、地方にも出かけている。

歌舞伎を今を生きる演劇として届けるその使命は、息子二人に託された。

七之助が語る。

父はこんなにもプレッシャーを感じていたんだな、それを見せていなかっただけなんだなというのは感じましたね。本当に最後の最後まで闘っていましたし、負けてなるものかというのも常にあったと思います。その姿勢はすごく見習わなくてはいけないな、というのは今でも思っていますね。

勘九郎が語る。

今まで本当に(父から)与えてもらっていた役でもそうですし、場所でもそうですし、これだけ与えてもらっていたんで、今度は与える側になってね。もちろん、新しいことだとか、新作というのもやりますけど、でも古典の方が好きなんですよ。血なのか、わからないですけどね。

歌舞伎の家に生まれた宿命を全身全霊で受け入れ、芝居に類稀なる情熱を傾けた勘三郎。強い磁場を持つ人間が周囲を巻き込んで、永遠の物語を紡いでいく。その存在はいつまでも人々の記憶に残り、語り継がれていくだろう。