【アナザーストーリーズ】そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~(3)

NHK総合テレビの録画で「アナザーストーリーズ そのとき歌舞伎は世界を席巻した~十八代目中村勘三郎の挑戦~」を観ました。

きのうのつづき

そして、勘三郎はいよいよエンターテインメントの本丸、ニューヨークに挑む。

2004年。当初は絶対に難しいと言われたミッションだった。その一つ一つの課題に、ときに怒り、ときに涙を流しながら、スタッフや出演者をまとめあげ、最後に大喝采を浴びることになる。

視点その2「中村勘三郎 歌舞伎が世界を席巻した日」

夢に見たニューヨーク公演に挑んだ勘三郎。彼はいかにして江戸の情緒をアメリカの人々に届けたのか。歌舞伎は世界最高峰の演劇であるという信念を貫いた。

ニューヨーク、リンカーンセンター。芸術文化の殿堂に突然見慣れない建物が出現したのは2004年のこと。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような芝居小屋、平成中村座。日本からコンテナ27個分の資材を船で運び、一から小屋を建設した。

勘三郎が自分の小屋で芝居をやることに思いを抱いたのは、19歳のときに遡る。全国各地に出没して、紅テントで芝居を打つ、唐十郎主宰の状況劇場の芝居を観たときだった。

狭い空間にひしめき合う役者と観客。女性ファンから飛ぶ大向こう。そう、江戸時代に庶民を熱狂させた歌舞伎そのものではないか。

これこそがまさに歌舞伎だ。芝居の原点と思いました。いつかこういう芝居をやってみたいという夢へとつながりました(「拝啓『平成中村座』様」世界文化社より)

その夢は45歳で叶えてみせた。2000年。浅草、隅田公園。江戸時代の雰囲気を伝える特設の芝居小屋を建て、公演をおこなう。平成中村座の誕生だ。周囲の反対を押し切って実現した一座は、連日満員の大成功を収めた。

だが、この男の情熱はそんなことでは収まらない。何と、ニューヨークに持っていくと言い出したのだ。芝居小屋を海外に建て込んでの前代未聞の歌舞伎興行。勘三郎は松竹の社長に直談判に及んだ。

「失敗するからやめなさい」「いや、どうしてもやりたいんです」「駄目だよ、失敗すると恥をかくから」「それでもやりたいんです」「どうするんだ?失敗したら」「腹切って、死にましょう」「お前、そんな、もったいないからよしなさいよ」。

勘三郎の情熱が松竹を説得した。

8日間、15回の公演。リンカーンセンターで行われるサマーフェスティバルの一つに選定された。当時のセンター長が振り返る。

特に感銘を受けたのは、歌舞伎の原点を探求し、蘇らせようとしていることだった。彼は観客を魅了するために、異国でも本物を見せようとしていた。オペラでも、ダンスでも、現代舞踊でも、ジャンルを問わず、特別な何かを持ったモンスターがいる。彼はまさにそんな存在だった。

だが、次から次へと壁が立ちはだかる。通訳としてアメリカ側との交渉に奔走した伊藤真紀子は頭に浮かんだだけでも、歌舞伎の知名度、小屋を建てる場所と法的許可、高額な物価と人件費、現地スタッフと俳優の労働組合の規制…様々な課題があったという。中でも、客が入ってくれるかどうかが気がかりだった。

伊藤が語る。

期待感も何も正直言ってなかったと思います。歌舞伎自体を知る人がそんなにいない。やはり、ニューヨークだと歌舞伎を知っているのは日本の方々で、ほとんどは隈取りのお化粧、派手派手なお化粧で舞台で踊るっていう形くらいのイメージしかない。

このアウエーの状況で、勘三郎はさらにハードルを上げる演目を選んだ。外国人にもわかりやすい舞いや踊りではなく、ストーリーが観客の心を打つかどうかで勝負しようというのだ。

選んだ演目は「夏祭浪花鑑」。アウトローが義理と人情の狭間で殺人を犯して、逃げる物語だ。

今度の公演の目的の一つに、「連獅子」や「棒しばり」など、いわゆるパフォーマンス的な歌舞伎ではなくて、セリフの芝居、ドラマとしての歌舞伎を観てもらおうというのがあってね。実を言うと、すごい冒険だったんです。(「十八代勘三郎」小学館より)

つづく