【吉例顔見世大歌舞伎】「井伊大老」直弼の苦渋、お静の方の思慕、仙英の深い洞察

歌舞伎座で「吉例顔見世大歌舞伎」第一部を観ました。(2021・11・19)

「井伊大老」、千駄ヶ谷井伊家下屋敷の場である。井伊直弼と愛妾のお静の方とは旧知の仲である仙英禅師の思いに何か感じるものがあった。

直弼が藩主になる前にお静の方と住んでいた彦根の埋木舎を訪ねてきたという仙英は、お静の方が直弼と慎ましくも楽しく暮らしていた日々に思いを馳せていたのであろう。そのことをお静の方に話すと、お静の方も昔の生活を懐かしく思い出していた。

これは、この場の最後に直弼が言う、「来世は間違っても大老にはなるまい」という言葉に繋がっていると思う。いかに、直弼が今、苦しい立場に立たされているのかということを表現している。

仙英がまず察したのは、七日前に直弼が詠んだ和歌が記された衝立だ。この筆跡に剣難の兆しが顕われているという。険しい表情でお静の方にそのことを告げ、直弼も自分の命が長くないと悟っていると察したのだ。お静の方はただ涙を流すしかない。

仙英は衝立に向かい、黙祷。その場を去り、「一期一会」と墨で記された古笠を届ける。その「一期一会」の意味するもの。今日は再び明日に還らず、人の命はその日その日ということだ。仙英は直弼に今生の別れを告げたのだ。

お静の方の覚悟も並々ならぬものがある。髪を下ろして、仙英の弟子にしてほしいと申し出た。埋木舎を庵室として、直弼の面影を抱きながら、生涯を終えたいという強い思いがあった。

仙英が去ったあとの、直弼とお静の方の二人の時間。桃の節句に飾られた雛人形の前で盃を交わす。昨年亡くなった娘の鶴姫の菩提を弔う意味もあるが、二人の残された日々を惜しむ時間でもあるような気がした。

直弼も埋木舎での懐かしい日々を思い出す。それが今は、周囲から鬼畜と罵られ、生きる苦しみを味わっている。これに対し、お静の方が、正しいことをしながらも世に埋もれたままの人もいると慰める。

何度生まれ変わっても夫婦だと、直弼はお静の方を抱き寄せる姿に男女の本当の愛を感じた。

井伊直弼:松本白鷗 仙英禅師:中村歌六 老女雲の井:市川高麗蔵 お静の方:中村魁春