立川笑二「景清」定次郎の気持ちの揺れ動き、それを支える旦那の心の温かさに大きく頷いた

道楽亭ネット寄席で「立川笑二独演会」を観ました。(2021・10・17)

笑二さんの「景清」が素晴らしかった。木彫り職人・定次郎の気持ちの揺れ動きが絶妙に表現され、人間の心の弱さと温かさに頷いた。

定次郎は中途失明である。盲人になる前は、右に出る者はいないと言われたほどの腕の持ち主の木彫り職人だった。父親も木彫り職人で、物心ついたときから彫り物の真似事をして、周囲の人から褒められていた。死んだ父親にも「精進しなよ」と言われ、素直に良いモノが彫れるように寝る間も惜しんで働いた。評判は良く、どんどん仕事は入ってくる。無欲に、一心不乱に、彫り物に集中していた。

ところが、である。外野から「あいつは自惚れている」「手を抜いている」という声が聞こえてきた。やっかみである。だが、繊細な定次郎はそれが気になった。一生懸命、仕事をしているのになぜ?と思った。

そのうち、それが気になって仕事が億劫になった。思うようなモノが彫れなくなってしまったのである。定次郎のような名人の域に達すると、メンタル面が出来不出来を大きく左右するのであろう。悪循環である。自分で納得のいくものが彫れなくなると、周囲の評判も落ちる。すると、ますます気持ちが不安定になる。そして、出来が悪くなる。

そんなとき、失明をした。だから、「嬉しかった」と定次郎は石田の旦那に言った。負け惜しみとかではなく、本心だったのだろう。これで木彫りはしなくて済むと思ってしまった。働かなくていいんだ。

でも、2、3カ月するとまた彫りたくなった。金がなくなったからとか、褒められたいとか、そういうことではなく、自分の気持ちが彫り物向くように再びなったのだ。だが、目が見えない。さぁ、とっかかろうとするが、手が動かない。見えなきゃどうしようもない。初めて恐ろしくなった。

こんなことなら、もっと彫っておけば良かった。他人の言うことなんか気にするんじゃなかった。そう、見えなくなって初めて思ったという。

ここで優しく諭す石田の旦那の存在は大きい。実際、良い腕を持っていた定次郎が失明してしまったことを、自分のことのように悔しがったのだろう。きっと明くから、信心してごらん。上野の観音様をお参りすることを勧めた。百日、それでだめなら、もう百日。それでもだめなら、もう百日。短気にならずに、粘り強く。賽銭は私が立て替えてあげる。母子の暮らし向きの面倒も見てあげよう。素晴らしい人だ。

旦那が言った言葉が良い。これまでの定次郎も良かった。そして、これから先の定次郎が見たい。この通りだ、信心してくれないか。目が明いたら、真っ先に私に観音像を彫っておくれ。

定次郎は自分の道を邁進する。そのために、石田の旦那が支える。その構図が美しい。それに景清様も心打たれたのであろう。大願成就。感動的な高座であった。