春風亭一之輔「豊志賀の死」愛情と憎しみは表裏一体。その愛憎劇には人間の悲哀が描かれている。

国立演芸場で「真一文字の会 春風亭一之輔勉強会」を観ました。(2021・09・02)

「豊志賀の死」が素晴らしい出来だった。この噺は怪談というよりは、愛憎劇みたいなところがあって、豊志賀と新吉、それぞれのそれぞれに対する愛情と憎しみが表裏一体、つまり対になっている。そこに人間の哀しさ、さらに言うと尊ささえ感じるのだった。

39歳の豊志賀と21歳の新吉。亭主のような、間夫のような、弟のような、息子のような、そんな年の離れた新吉に対する豊志賀の感情。なんだか雨の音が気になって眠れない夜に、豊志賀の掻巻の中に新吉が入り、「嬉しい仲」になった。男嫌いで通っていた豊志賀にとって、それは本当に「嬉しい仲」だったのだと思う。

小豆粒のような腫物が段々に大きくなって、豊志賀の顔が変容していく。それは、嫉妬という感情がこの「嬉しい仲」に混ざり込んできたことと無関係ではない。悪循環。新吉との関係が知れわたってから豊志賀のところに稽古にくる弟子は誰もいなくなった。だが、羽生屋のお久という娘だけは、純粋なのか、なぜか通ってくる。

もしや、この娘は新吉に惚れているんじゃないか。そして、新吉もまたお久のことを憎からず思っているのではないか。そう思ったとき、顔にできた腫瘍は、嫉妬が増すのに比例して大きくなっていく。そして、こんな顔では新吉に嫌われるのも仕方ないと気鬱になっていく。治る病気も治らない。

一方、新吉もお世話になっている豊志賀を甲斐甲斐しく看病するのは当たり前だから一生懸命に看病する。だが、あまりに豊志賀の嫉妬が強くなってくると、嫌気がさしてくるのも分からないでもない。

お久を蓮見寿司に誘ったのも、愚痴を聞いてほしいという気持ちもあったろうが、どこかで豊志賀よりお久と一緒にいた方が幸せになれると思った節があったのだろう。お久の故郷である下総に一緒に逃げましょう、と心変わりしてしまうのは、けして新吉を悪者扱いできない部分を感じる。「不実な人」になってしまうのも仕方ない部分があったのではないか。

豊志賀はそれでも新吉を愛していたと僕が思うのは、新吉が叔父さんのところに逃げ込んだときに、「隣の部屋にいる豊志賀」が叔父さんに話した内容だ。新吉さんには本当に好きな人に添わしてあげたい。私は後見になって、月々の援助をして暮らし向きを支えてあげたいと言ったことだ。これは本心なのかもしれない。年上だけれど可愛い女性の部分が出ていると思う。

だけれども、嫉妬は執念深かった。新吉の心変わりを見てとったのか、自害したときの遺書は恐ろしい。「新吉の女房になる女は七人までは取り殺す」。新吉に言わせれば、豊志賀がお久に激しい嫉妬さえしなければ、恩のある師匠に尽くし続けていたであろうに。だが、あまりに過激な嫉妬に耐えきれずに、心変わりをしてしまった新吉への最期の恨み言が、あの遺書なのだろう。愛情と憎しみは表裏一体。現代社会でもあり得る男女関係のもつれを思った。