【プロフェッショナル 吉永小百合SP】私はプロではない。いつまでもアマチュアでありたい(3)

NHK総合の録画で「プロフェッショナル仕事の流儀 吉永小百合SP」を観ました。(2019年10月26日放送)

きのうのつづき

映画撮影において、吉永にとって大きな課題があった。今や主流となっているカメラの位置や角度を変えて同じ芝居を何度も撮り重ねるという手法である。吉永は本番一度きりのフィルムの世界に生きてきた。「ワンカットにすべてをこめる」。これは同時代を生きた俳優ならすべからく持っていた信念であろう。

ここで番組では高倉健さんのインタビューを挿入した。

非常に凛としていらっしゃるというんですか。それはやっぱりすごいオーラを発散、半ば半分本当に好きになってしまうようなことがありますね。終わって、ああなんだ、これ芝居なんだなあと思ってね。

同じ芝居を繰り返す中で、いかに集中を持続できるか。吉永は語る。

本当は嫌ですよ。それは絶対ね。本番は一回だと思ってきたから。でもそれは変えないと、この世界ではやっていけない。映画が好きだから、映画の現場にいたいっていう思いで今度の仕事も引き受けて、これまでコンタクトとっていない新しい監督さんとか、スタッフとやって、その中で自分が何ができるかって、ある意味、トライというか、挑戦ですよね。

こういう映画というもので、人の心を熱くしたり、感動させたりしたいと思うし、そういう仕事をやってるってことは私にとって本当に大切なかけがえのないことですね。

取材をはじめて3カ月。京都。控室から声がかかり、これまで立ち入りできなかった本番前の化粧の取材が許された。これまでは自分で化粧をし、イメージを作ってきたが、考えを改めたという。

自分でやってると、やっぱり吉永でしかないようなメーキャップの仕方をしてる。全く自分ではつけるはずがない口紅の色をつけていただいて、やっぱりそういうことって必要だなと思って。

着実に近づく幕引きのとき。それでもあがく俳優としての魂。それが吉永小百合なのかもしれない。

取材途中で、吉永がディレクターに「あなたはおいくつ?」と問い、「33です」と答えると、自らの過去を語る意外な言葉が飛び出した。

33?その頃から多忙というか、一生懸命に仕事をするようになりました。不本意な映画に出たりもしましたよ。

吉永小百合は1945年、終戦間際に東京で生まれた。父が事業に失敗し、借金取りに追われる生活。貧しかった。小学校の給食費が払えずに、母に「忘れました、と言いなさい」と言われたこともあったという。だが、天性の明るさを持っていた。特に小学校の学芸会では劇で輝いていた。その劇を少年院で披露したときのことは忘れられないという。

観てくれた少年たちが泣いてたんですよね。この劇の力は大変なもんなんだっていうのを感じまして。

卒業文集には「私は将来、映画俳優になりたい」と書いた。母・和枝の導きもあって、14歳で映画デビュー。15歳で映画会社と専属契約を結ぶ。暮らしが楽になればという一心で、一年で10本以上の映画に出演した。1962年、17歳のときに、「キューポラのある街」が大ヒットし、人気は絶頂に達した。

山田洋次監督が振り返る。

吉永小百合という存在は、まだ労働者という若者がいっぱいいた時代で、労働する若者たちの大きな希望というか、一生懸命働いて、なけなしの賃金を手にして映画館に行って、スクリーンで吉永小百合を観て、よし明日もまた頑張って働こうという気持ちにさせる本当に星のような存在だった。

周囲の評価とは裏腹に、吉永には人知れず悩みがあった。母が決めたレールの上を走るだけでいいのか。連日撮影に追われ、高校も中退した。彼女はこう綴っている。

「私は生きているかぎり、演技している。生のままの自分などというものは、とうの昔にどこかに葬られてしまったのだ」。

吉永小百合は“魂の抜けた人形”だと自分を責めたのだった。

つづく