【追悼 麒麟児和春】昭和天皇が身を乗り出して観戦するほどの激しい突き押しは今も語り草になっている。

大相撲の元関脇麒麟児として激しい突き押しで活躍した垂澤和春さんが3月1日、多臓器不全で亡くなった。67歳だった。

麒麟児が亡くなったと聞いたとき、僕は少年時代の思い出をプレイバックしていた。小学校高学年で大相撲に夢中になっていた頃、横綱北の湖と並んで好きだった力士である。65歳の定年で再雇用制度を使わずに相撲協会を退職していたのは存じあげていたが、これで5人いた「花のニッパチ組」は大錦と若三杉(のちの二代目若乃花)の二人になってしまったか、という喪失感が襲っていた。大相撲に夢中になった小学校から中学校時代の他の思い出までも走馬灯のように僕の頭を駆け巡った。

千葉県柏市出身。昭和42年夏場所、二所ノ関部屋から初土俵を踏み、49年に新入幕。50年夏場所中日の天覧相撲で組まれた富士桜との一番は、相撲好きの昭和天皇が身を乗り出して観戦したほど、激しい突き押しの応酬で土俵を沸かせ、今でも語り草になっている。

「大相撲」(読売新聞社発行)昭和50年夏場所総決算号より

八日目 天覧相撲に麒麟―富士熱闘

麒麟児と富士桜がものすごい突っ張りを展開、超満員の観衆を沸かせた。麒麟児が立ち合いやや左へ変わっていなしてから猛烈な突き合いになった。ともに回転がよく、力もほとんど互角。互いに譲らず。一進一退、勝負がつかない。富士桜が口の中を切って血だらけ。活気はさらにみなぎった。

死力を尽くして互いに疲れ、富士桜が出るところ、麒麟児は右から引っ張り込んでまわしを引きざま、土俵際の上手投げできめた。正味26秒。けいこ十分同士でなければ絶対にみられない激戦だった。テレビのビデオを見た相撲記者が数えたところでは、やや回転でまさっていた麒麟児の突っ張りの数は、54発、あるいは58発で、意見が分かれた。

〇麒麟児「最後はかろうじて投げたよ。向こうがもたれこんでくるところを投げたんだが、本当の投げじゃないね。もちろん天覧相撲は初めてだね。58発?そんなに突っ張ったかね。一足間違えればもっていかれるところだったもの。突き出そう、突き出そうと思っていた。気持ちいいね」

●富士桜(血だらけの顔で引き揚げてきて、鉄砲柱に頭をゴツンとぶっつけ)「チクショー。どうしても勝てないな。力を出し切ったからね。あしたはがんばるよ」

この号の「夏場所総評座談会」で、玉の海梅吉氏は麒麟児についてこう語っている。

先場所あたりまではただ暴れ回って、ほんとうの地力がどの程度かは測れなかったけど、今場所あたり大体三役は維持するだけの地力がついているなと感じたという印象を受けたのは、あれだけ思い切って突っ込んで攻めていて、いなされてもパッと残す点は残す。あのくらい思い切って攻め込んでいるやつが、土俵際で何回かいなされたけれどちゃんと残して、立ち直っている。また立ち直り方が早いんですよ。攻めるときよりはずされたときにあれだけ力いっぱいに攻め立てるというのは、立派な運動神経を持っていると感心しているんですよ。

生まれたときから体の大きかった麒麟児は、中学校に入るころに90キロもあり、小学校2年からはじめた柔道もめきめき上達。このころから平凡な人生じゃつまらない、なにか思い切ったことをやってみたい、と考えるようになり、相撲取りになって名を残そう!と思い立つ。中学2年の夏休みに両国行きを敢行、立浪部屋、時津風部屋と断られ、二所ノ関親方が「和春の目を気に入った」と言って入門を快諾した。

中学2年だったので、両国中学に転校し、初土俵。親方は麒麟児の体形を見て、突き押しに適していると判断、激しく突き押しをやらせる。突き押しを身につけるまで時間がかかり、序二段、三段目を通過するのに3年かかったが、その後は体もでき、力もついて急上昇。昭和48年秋場所、九州場所と幕下全勝優勝をして一気に十両に昇進。麒麟児という四股名がつく。

49年名古屋場所で十両優勝し、秋場所に新入幕。182センチ、145キロの体で突き押し専門の速攻で攻めまくり、その場所11日目で早々に勝ち越し。横綱・輪島とも対戦している。その後も順調で、新入幕から7場所連続勝ち越して、関脇にまで昇進した。この快進撃は僕もよく覚えていて、テレビ桟敷から夢中で応援した。

全盛期は昭和50年代前半だろう。54年春場所10日目の栃赤城戦で外掛けで敗れたときに右足を痛めて休場。秋場所前の稽古で左ひざ関節を痛め全休し、十両に1場所だけ陥落。以前の勢いに陰りが見えてきたが、僕は応援を続けた。下位では実力があって大きく勝ち越す。上位に来ると以前のように活躍できない。それを繰り返した。56年名古屋から59年九州まで、実に21場所連続で勝ち越しと負け越しを繰り返したのは記録だ。相撲通の昭和天皇が、ご説明役の春日野理事長に「麒麟児は今度は勝ち越す番だね。下位に下がったから」などと質問され、理事長が苦笑したという。

このころになると、麒麟児も相撲を楽しんで取るようになり、富士桜との対戦では、示し合わせたように時間前に立ち上がり、両者の取り組みになると、いつ立つか、とお客を大いに楽しませた。

「花のニッパチ組」が次々と引退し、最後の生き残りになった麒麟児だったが、歳は取っても相撲は若々しく、63年春場所には6年ぶりに三賞を獲得、夏場所には横綱大乃国を破って8年ぶり5個目の金星を獲得するなど踏ん張りを見せたのは嬉しかった。

63年秋場所に引退、年寄北陣を襲名。幕内通算成績は580勝649敗。殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞3回。

二所ノ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたると同時に、大相撲中継や「サンデースポーツ」の解説ではわかりやすい歯切れの良い語り口が印象に残っている。

合掌。