「アナザーストーリー 運命の分岐点 天才現る!古今亭志ん朝の衝撃」オヤジはオヤジ。落語は伝承芸であると同時に独自の道を切り拓く芸能。
NHK-BSプレミアムの録画で「アナザーストーリー 運命の分岐点 落語を救った男たち 天才現る!古今亭志ん朝の衝撃」を観ました。(2017年6月13日放送)
ダイアナ妃の事故死、ベルリンの壁崩壊、ビートルズ来日・・・。人々が固唾を飲んで見守った、あの“出来事”。あの日、あの時、そこに関わった人々は何を考えたのか? それぞれの人生はその瞬間、大きく転回し、様々なドラマを紡ぎ出していきます。 残された映像や決定的瞬間を捉えた写真を、最新ヴァーチャルで立体的に再構成。 事件の“アナザーストーリー”に迫る、マルチアングルドキュメンタリー。2015年4月放送開始だが、落語に関しては、この1本が放送されたのみである。三つの視点から、古今亭志ん朝という稀有な天才落語家を分析している。(以下、敬称略)
視点1「天才覚醒の瞬間」
1957年2月前座修行開始。同期の鈴々舎馬風が楽屋入り初日から、「この人にはかなわないと思った」と語っている。そして、初高座を目撃した落語評論家の川戸貞吉は「これまで見てきた中で、こんなに上手い人は出てこない」と思ったという。喋り出す口調の良さ、声の大きさ、明るさ、テンポの良さ。59年には二ツ目に昇進、古今亭朝太独演会を開き、その人気はうなぎのぼりだった。61年にはNHKのドラマ「若い季節」に出演。落語協会幹部はある決断をする。
62年3月真打昇進だ。入門からたった5年、19人の先輩たちを追い抜いて、24歳での昇進決定に誰もが驚いた。そこには、志ん生、文楽、圓生といった幹部が中堅の実力ある真打不足で落語人気が低迷しているカンフル剤がほしいというのっぴきならない背景があった。テレビやラジオで売れてタレントの方向に行ってしまうのを恐れ、「早く真打にしちまえ」という父・志ん生の願いと、「アレがいなくなったら困る」という他の幹部の思いがあったのではないかと、京須偕充は言う。
「SWITCH」1994年1月号で、志ん朝が答えている。
これは上の人たちのうちの親に対する世辞だと思う。だけど自分もまったく駄目でもないと思う。ひどけりゃ「いくらなんでも、それは」ということになったと思う。
62年3月21日真打昇進披露興行の初日、「火焔太鼓」。四日目、「明烏」。前者は志ん生、後者は文楽という名人の十八番を堂々とかけている。馬風いわく「天下の文楽の前で、演れる。うちの親父とは違う、と演れる。隠れた自信があったんだろうね」。四日目の「明烏」の録音はニッポン放送にしまわれていた。その録音を流したが、そのキレと臨場感は抜群で、「誰にも真打と認めさせる芸」がそこにあった。
視点2「ライバルが見た志ん朝」
抜かれた19人のうちの一人、立川談志は志ん朝を誰よりも評価し、かつ反発した男だ。「あいつは人間が描けていない」と批判する反面、「金を払って他人の芸を聞くとしたら志ん朝しかいない」と断言した。談志と交流の深かった川戸貞吉が言う。「口が裂けてもライバルとは言わなかった。たとえ思っていても、自分の方が上だと思っていた」。志ん朝が真打になるという噂が楽屋に広まっていると川戸に言うと、川戸は「まさか(落語協会が)そんなことをするわけがない」と思ったという。そりゃあ、上手い。談志と比べて、色気もあれば、調子もいい、明るくて、滑らか、何より人気がある。だけど、入門たった5年で真打とは、と。
「談志は怒りというより、悔しかったんでしょうね」。落語協会上層部はその反発力に期待したかのように、2か月後に柳朝、7か月後に圓楽、1年後に談志を真打に昇進させた。そして、志ん朝に負けるか!と頑張った。特に談志は古い話芸を現代に通用するものにしようと、志ん朝に芸論を仕掛けるが、いつも空回りだった。志ん朝は芸の話をするのが好きではなかった。一人で考えるタイプの噺家だった。
談志は強烈な対抗心をもって、全く違う芸風で対抗した。それが「笑点」の企画であり、社会風刺やブラックユーモアを盛り込んだマクラだった。毒蝮三太夫が言う。「志ん朝にはできねえだろう。俺にはできるぞ、というね。でも、志ん朝さんも僕しかできないことがあると思っていた」。お互いに切磋琢磨していたのだ。王道を守り続ける志ん朝と独自のスタイルを確立する談志。志ん朝はメディアの取材をほとんど受けず、裏で努力する恥ずかしがり屋だったのも対照的だ。
昭和40年代以降、志ん朝以外の談志、圓楽、柳朝、圓蔵が落語界を支えた。「親の七光り」と言われながらも人知れず努力を続けた志ん朝と、「志ん朝に負けるか」とこれまた努力したほかの四天王たち。強硬とも取れた「5年で真打」という協会幹部の賭けは見事に当たったわけである。
視点3「落語を受け継ぐ者たちへ」
現在の正蔵、当時のこぶ平に人一倍目をかけたのが志ん朝だった。87年の真打昇進のときの志ん朝の貴重な口上が流された。「あなたのお父さんの三平さんのファンでしたよとおっしゃる方がいる。こぶ平が違う商売だったら大変嬉しいことです。しかし、私も経験がありますが、親の贔屓だったということを同じ商売の倅が言われるのはあまり嬉しいことじゃない。お父さんより、本人、こぶ平のファンになって頂けますようお願い申し上げます」。
正蔵が噺家になったのは父親の影響ではない。中学2年生のときに見た志ん朝の高座で「なんてカッコイイんだ!うちの親父とは全然違う。これだ!」と思ったのがきっかけだ。父のようなハチャメチャな笑いを期待される。しかし、本格的な古典をやりたい。原点は志ん朝師匠じゃないか。と正蔵は振り返る。
あるとき、家に電話が鳴った。志ん朝からだった。「旭川にいる。仕事じゃないが、来いよ」。駆けつけた。ゴルフ場だった。一緒にサウナに入った。志ん朝が喋る。話題は落語のことばかりだ。「お前、『文七元結』やりたいんだろう」「はい」「あの噺のどこが難しいか、わかるか?佐野槌の女将なんだよ」。普段、芸論の嫌いな志ん朝が延々と喋る。古典落語の講義は、翌年も翌々年も続いたという。
正蔵が言う。「何か伝えておかなきゃ、と思ったんでしょうね。何とかなってもらわなきゃ、ってね」。九代目文楽にも志ん朝が文楽襲名のときにやさしく声をかけてくれた。「アンちゃん、良かったな。頑張ってやればいいんだぞ」。そう言って、50日間の披露目の口上をすべて付き合ってくれた。
2001年7月。志ん朝とこぶ平の対談が雑誌の企画で組まれた。その時に言われたのが、「自分は自分のやり方しかないんだ」。「こぶは三平兄サンみたいな芸はできない。自分のやりたいようにやりなさい」。志ん朝が亡くなる2か月前のことだった。
「志ん生は目の前にいるだけでいいんだから、言われた。俺は違う。父とは違う道をいく」。これが志ん朝を終生支えた言葉だったという。芸は継承するものであると同時に、自分で切り拓いていくものでもあるのだ。「自分らしさ」とは何か。芸道とはその模索なのかもしれない。