一龍斎貞寿「お富与三郎」 連続読みのクライマックス、「玄冶店」。天国の翠月先生、貞水先生に思いを馳せて。

らくごカフェで「一龍斎貞寿の会」を観ました。(2020・12・12)

貞寿先生はいま、「お富与三郎」の連続読みに挑戦している。今回はそのクライマックス、というか最も有名な「玄冶店」の部分だ。子どもの頃、春日八郎が♪黒板塀に見越し松、死んだはずだよ、お富さん~と唄っていた。意味はわからなかったが脳裏に焼き付いている。お囲い者、お妾さん。いまは愛人なんていう風情のない言い方をされるけれど。小学校低学年の僕はよく祖母に連れられて近所の「おばあちゃんの茶飲み友達」のお宅へ伺ったが、そのとき祖母は「あの人は大きな会社の社長のお妾さんなんだよ」と教えられた。まだ「お妾さん文化」があった昭和40年代である。黒板塀はなかったけれど。

木更津に行った与三郎は、その土地の親分だった赤間源左衛門のお囲い者だったお富と恋に落ちてしまう。ちょいちょい親分の留守中にお邪魔して、「いいこと」をしていたが、天網恢恢疎にして漏らさず。子分の密告によって赤間親分の知るところとなる。わざと留守にするふりをして子分と結託し、その罠にはまった与三郎はまんまとお富と間男している現場を押さえられてしまう。赤間はこれでもか、というくらいに与三郎を刀で斬り付けた。与三郎は命こそ助かったが、身体中傷だらけ。今業平と呼ばれたいい男の風体はすっかり変わり、誰が呼び始めたのか、「切られ与三」という名がついた。

お富は木更津の海に身投げ自殺。与三郎は命からがら、生まれ育った神田横山町の伊豆屋、両親の元に辿り着いた。だが、その風体をよく言う人はなく、外に出るのも気鬱。頬冠りをして、たまに表に出たが、後ろ指を指されるのが嫌だった。

3年後。親父は気晴らしに茅場町の縁日にでも出かけたらと、与三郎に勧め、表へ出る。と、縁日の雑踏で通りすがる綺麗な見覚えのある女性を見かける。お富に似ている。お富じゃないか。いや、お富は死んだはず。だが、与三郎は忘れられない面影を追って、その女性の後をつけた。すると、その女が入っていったのは、黒板塀の一軒の家。格子越しに与三郎は中の様子を覗く。

と、後ろから声をかける男二人組。蝙蝠安とその子分、盗人だ。与三郎の様子を見て、自分たちと同じく、盗人に入る算段をしていると思ったようだ。共闘しないか。最初に自分たち二人が忍び込み、強請るから、そのあとに与三郎に出てきてもらい、中の女を助ける芝居を打って、礼金を三人で分けようという相談である。

蝙蝠安らが先に中に入り、女を脅す。そして、与三郎があとから現れる。ところが、この女こそ、正真正銘のお富だったから大変だ。運命の再会。盗人芝居どころではない。喜ぶ与三郎とお富、という図だ。この場面を、貞寿先生は歌舞伎の「源氏店」よろしく、芝居台詞で表現した。「いやさあ、久しぶりだなあ」。カッコイイ!しびれる!で、「芝居ではこうですが、実際にはそうではなくて…」と、講談調に戻り、運命の愛し合う男女の再会を描いた。

尻尾を巻いて逃げる蝙蝠安ら。だが、お富は井筒屋の旦那、多左衛門のお囲い者になっているわけだ。現れた多左衛門が驚いたことに人格者なのね!お富と与三郎の関係と事情を訊いて、「私は仮の亭主ですから」と言って、30両を二人に渡し、「復縁をしなさい」と言う良き理解者なのだ。おお!さあ、このあと、どうなるのか!ますます面白くなったところで、次回へと切った。

この高座が終わって中入りに入ったが、中入り後の高座で貞寿先生は12月2日に亡くなった神田翠月先生のことに触れた。貞寿先生は「お富与三郎」を師匠の貞心先生から教わっている。だが、翠月先生の「お富与三郎」を目指しているところがあると言った。それは、翠月先生が女流講談師の先駆け的存在として尊敬している理由もあるが、翠月先生の「お富与三郎」がめちゃくちゃ好きだったからだと言う。この「お富与三郎」の連続読みをするにあたって、音源を探したら、国立のライブラリーに翠月先生と雲助師匠のリレーが残っていて、それを聴いて、また痺れてしまったと。

そのあと、貞寿先生は、一門である貞水先生の思い出を涙を浮かべながらいっぱい語って、伝承芸っていいなあ、素晴らしいなあ、という思いを強くした。講談界初の人間国宝、一龍斎貞水先生のことについては、また別の機会に書きたいと思う。中入り後の「東玉と伯圓」も素晴らしかった。いや、本当に伝承話芸は素晴らしい。