蜃気楼龍玉「火事息子」 勘当しても自分の血が流れる息子への情愛は棄て切れない。親も子も心の底で思いやっている。

日本橋公会堂で「雲助一門 三つ巴の会」を観ました。(2020・11・08)

五街道雲助師匠には3人の弟子がいる。上から桃月庵白酒(はたご→喜助)、隅田川馬石(わたし→佐助)、蜃気楼龍玉(のぼり→弥助)。今は各々が一枚看板として活躍している。この日、僕が観た番組は、馬石「笠碁」白酒「錦の袈裟」龍玉「火事息子」の順だった。三人ともそれぞれの個性があり、大好きだが、龍玉師匠の「火事息子」は出色だった。

冒頭、質屋である伊勢屋の一人息子である藤三郎がなぜ、臥煙になったのか。さりげなく触れる。火事が子供の頃から好きで、おもちゃと言えば、纏や梯子といった火消にまつわるものばかり。半鐘が鳴ると、家を飛び出して火事を見にいくので、両親は表に出ないよう鍵をかった。火を怖れず、火に飛び込む、「勇み」に憧れた。17歳で火消になりたいと言うので、鳶頭に頼んで「いろは四十八組」に受け入れないように廻状を廻した。それでも火消に憧れる藤三郎は19歳で家を飛び出してしまった。仕方なく、親類と相談し、窮理切っての勘当にした。丁寧な説明で噺に引き込む。

藤三郎が家を出て、5年後。伊勢屋の近所で火事があった。筑波おろし。蔵に目塗りをしていないという悪評を立てないため、風下を優先すると左官に断られたため、必死に旦那と番頭と定吉で用心土で目塗りしようとするが、素人ゆえにうまくできない様子がユーモラスだ。それを見つけた臥煙の藤三郎が屋根をヒョイヒョイ飛び越えてきて、番頭を助けてやる場面も含め、描写が見事だ。

僕が最初に心に沁みるのは、火事見舞いのところだ。親父が風邪で名代でやってきた高田屋の倅を見て、言う父親の台詞。「いい跡取りになったねえ。ウチの馬鹿野郎とお宮参りが一緒だった?嫁を迎えて、お子さんが生まれた?孫の顔が見られる高田屋さんが羨ましい」・・・「それに引き換え、アイツはどこで何をしているのか。野垂れ死にしているんじゃないか」。うん、うん。

そして、クライマックスは親父と藤三郎の再会の場面だろう。番頭が目塗りの手伝いをした方を引き留めているので、御礼を言って、小遣いを差し上げたらどうかと進言するが。その方とは勘当した息子。親父が意地を張る。「会うわけにはいかない」「一目だけでも」「お上に願って勘当したんだ。世間様に申し訳がない」「赤の他人なればこそ、御礼をするのが人の道ではないですか」。番頭のこの言葉が決め手になる。

身体中に彫り物をして、半被では隠しきれず、褌を目一杯引っ張って足を隠す藤三郎は、竃の脇に小さくなっている。他人行儀な父と息子のやりとり。「立派に絵が描けましたな。裸同様のみっともない姿で伊勢屋の暖簾に傷をつけて。親の顔に泥を塗るというのは貴様のことだ!」と吐き捨てる旦那をなだめるように番頭は母親を呼び込む。猫を抱いた母親が藤三郎の姿を見て、猫なんかどうでもよくなる様子が目に浮かぶ。

実は父親は「詫びさえ入れてくれれば、この身代を譲る」と言っていることを打ち明ける。世間の評判より倅が大事という思いが伝わる。近所に火事が起きて、倅が現れないかと願をかけていたとも。勘当しても、自分の血が流れている息子への情愛は変わらないのだなあ。寒そうだから着物を、という母親に対し、父親は「やるのはダメだが、打っ棄っておけばいい。そうすれば、誰かが拾うだろう」と意地を張りながら醸し出す優しさ。お小遣いも打っ棄って、千両も打っ棄っておきましょう、箪笥ごと打っ棄っておきましょう。親子の情愛はどんなことがあっても切れるものではないと、龍玉師匠の口演を聴き、しみじみ思った。