ポスト・コロナの新星たち①「金」看板になる日を夢見て 三遊亭花金
きょうから4回シリーズで、今年前半に二ツ目に昇進した注目の噺家さんを紹介します。きょうは、3月下席から昇進した金かん改メ三遊亭花金さんです。
福山雄太郎は福岡で生まれ育った。落語との出会いは大学浪人時代だ。それまでは、永井荷風や夏目漱石が好きな文学青年だった。息抜きに行く図書館で、気まぐれに落語のCDを借りた。幼い頃、親の運転する自動車の中で落語が流れていたことを思い出した。思い返せば、小三治師匠の落語だ。演目までは覚えていない。久しぶりに聴く落語は面白かった。印象に残っているのは、先代馬生師匠の「笠碁」、談志師匠の「三軒長屋」。興味が湧いてきた。
東京に出て早稲田大学に入学。落語研究会に入った。早稲田は他の大学と少し趣が違う。落語の実演よりも鑑賞・研究に重きを置く伝統がある。だから「オチケン」と呼ばずに「ラッケン」と呼ぶ。福山青年もそのつもりだった。だが、新入生歓迎の習わしとして、全員が上級生に向かって「酒の粕」という小噺を披露するというのがある。そのときに、福山の小噺が思いのほか受けた。あとから思うと、そのことが卒業後に落語家を職業にしようと決断したきっかけだったのかもしれない。
一般企業の就職活動はしなかった。でも、すぐに入門志願というのも躊躇した。一年間はアルバイト生活をしながら、「どの師匠の弟子にしてもらうか」を悩んだ。夏の浅草演芸ホールでの禁演落語興行で聴いた「権助提灯」、そのあとにお江戸日本橋亭で聴いた「野ざらし」で、三遊亭金遊師匠の魅力に触れた。噺の世界に引き込まれるというのだろうか。笑いを求めず、情景が浮かぶ高座が印象に残り、「この師匠の弟子になりたい!」と思った。
浅草で出待ちをしたら、「オチケン出身かい?」と問われ、「はい」と答えると、「じゃあ、噺を録音して送ってください」と言われ、「つる」を録音し送った。ほどなくして「入門を許します」というハガキが届いた。上に金の助兄さんがいた。金遊の金をとって、金かんという前座名をもらった。楽屋のことは大概は兄さんから教わった。
金の助兄さんが18年11月に二ツ目に昇進した。翌年3月に故郷・岡山で、その昇進披露の落語会が開かれた。その打ち上げの席で、金遊師匠が言った。「俺は若い頃から『野垂死にしたい』と口癖のように言ってきた。だけど、まだまだ生きようと思うようになった」。打ち上げの後、師匠と金かんの二人で飲んだ。その翌朝、師匠は宿泊したホテルで急死していた。
金遊師匠からは10の噺を習った。いや、正確に言うと、あげてもらったのは9席だ。「後生鰻」は、最後の「あげ」を残して師匠が天国に逝ってしまったからだ。師匠から習った「真田小僧」を末廣亭の二ツ目昇進披露4日目でかけた。岡山の落語会で金遊師匠が最期に演じたのが「真田小僧」だった。3月24日は師匠の命日ということもあり、「薩摩に落ちた」まで通しで演った。入門してたった3年4カ月だったが、師匠との色々な思い出が駆け巡った。
金遊師匠の稽古は細かかった。一言一言、止めて直された。「置泥」の、泥棒に入られる家の住人の了見。泥棒から有り金を巻き上げようという魂胆は全くない。むしろ、「殺してくれ」と本気で開き直っている。その心情を表現するにはどうしたらよいか。師匠は実に丁寧に指導してくれた。その金遊師匠がいない。直してもらえない。指針がない。もちろん、これまでも、他の師匠からも落語は習ってきたし、笑遊門下に入った現在も、そうである。だけど、どこかで「(金遊)師匠だったら、どういうかな?直されるかな?」と気に留めるという。
10月にスタートする隔月の勉強会「やっちゃう?!」の第1回では「心眼」をネタおろしする。金遊師匠が十八番にしていた噺だ。最近、「金遊さんに似ているね」と言われることがあるという。おそらく、浅草と日本橋で出会い、惚れた金遊師匠の高座は一生頭を離れないのだろう。でも、いつかそこから、ある部分は脱皮しなくてはならない。「自分の落語」を作っていかなくてはならない。でも、その過程で、少なくも二ツ目時代序盤は「金遊を意識する」ことも間違っていないのではないか。そのことは現在の師匠である笑遊師匠も認めてくれている。
二ツ目勉強会「やっちゃう?!」@お江戸両国亭
10月19日(月)19時開演 木戸銭2000円(当日精算)
三遊亭花金「心眼」林家彦三「染色」三遊亭ぐんま「禁酒番屋」昔昔亭昇「ぜんざい公社」
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