五街道雲助「もう半分」 因縁噺の芝居台詞に痺れる。名人にして名伯楽。その藝はさらに弟子に受け継がれ
よみうりホールで「紫演落語会」を観ました。(2020・08・22)
五街道雲助師匠の落語は癖になる。この日、トリを務めた権太楼師匠が「例えば『井戸の茶碗』をさん喬さんが演ると人情噺になり、私が演ると爆笑噺になるけど、雲助さんが演ると因縁噺になるのよ」と言っていたが、まさに言い得て妙。普段の寄席の15分高座では「新版三十石」や「夕立勘五郎」「ざるや」「勘定板」などを軽妙に演って笑わせてくれるが、一旦、トリを取る興行やホール落語で長尺となると、また違う側面を見せてくれて、さすが紫綬褒章という高座で魅せてくれる。この日の「もう半分」もすごかった。
荷売り酒屋にやってくるのは、馴染みの客。主人は「とっつぁん」と呼んでいたから、60は過ぎているのだろう。一杯8文の五郎八茶碗に「半分だけ」注いでもらい、それを「もう半分」と言って何倍もおかわりするのを楽しみにしている男だ。こうすると、「余計飲んだ気がするから」というが、意地汚い飲み方だ。
男の商売は天秤棒を肩に担いで青物を売り歩く「ぼていふり」。いつもなら、その商売道具を店に置いて飲むのだが、この日はその荷がない。「きょうは商売帰りではなんです」と言う。店のおかみさんは冬瓜の煮たのを出してやると、「では、この半分で帰ります」と言って、飲み干して、店を出た。いつもより暑い夏の夕暮れだ。男の忘れ物に気づいた酒屋夫婦。亭主はすぐに追いかけて渡してやろうとするが、女房は「忘れた方が悪い」と引き留める。風呂敷包みの中は50両だ。「お前さん、いつかキチンとした暖簾をかけて、若いもんを2、3人使う商売をしたいと言っていたろう。いつまでも30文、40文の商売では埒があかないだろう」。家探しされても困るから、と箪笥の中へ隠す。ここから「悪」の物語の序開きだ。
案の定、忘れものの気づいた男が現れ、風呂敷包みがなかったかと尋ねる。白を切る酒屋夫婦。男は「自身番に届ける。奉行所に訴えるが、お店にご迷惑をかけてしまう」と言うが、主人は「家探しをしてもいい。俺たちがネコババしたように聞こえる。強請っているのか?」と強気。男はその50両のワケを話す。昔は青物問屋を手広くやっていたが、酒が好きでしょうがなかった。いわゆる、後引き上戸というやつで。酒道楽で身を持ち崩した。裏長屋に引っ込み、天秤棒を担ぐぼていふりに。そのうち、女房が患い、22になる娘を吉原の朝日丸屋に身売りして拵えた50両だ。娘からは別れ際に「おとっつあん、酒だけは飲まないでね」と言われたのに…少しならいいだろうと、約束を破った私が悪い。娘に合わせる顔がない。
「そんな大事な金をどうして身体から離したんだ。どこかに忘れるのが悪い。ここにはない」と言われ、諦めて帰る男。これで50両は酒屋夫婦のモノになったが、まだ油断はならない。本当に自身番に届けられたら、俺もお前もあんなこと、こんなことのある身柄。お白洲に出て、お奉行様に裁かれたら、二人とも首は胴についちゃいない。いっそ、あの爺さんをばらしちまえ。亭主と女房は意見が一致。雨の中、酒屋主人はきのう魚屋から預かった出刃包丁を持って大川端へ。男を追いかける。オイ!と呼ぶ声に、男は「包みはございましたか?」「金はあったぜ。このことだろう」。懐から出刃を出す。「人殺し!」と叫ぶ男。ここから、鳴り物入りで芝居台詞に。
それではおなれば、金をくすねただけでなく、このわしを殺そうというのだなあ。知れたことよお。金の工面に差し支え、難儀なところへ思いもよらず、耳を揃えた50両、忘れていったはそっちの誤り、一旦手にする上からは、返せられねえのは俺の性分、金ばかりじゃあ後の妨げ、気の毒ながら命もろとももらうのだ、今降る雨が末期の水、これがこの世の引導だあ
思わず、五街道!と大向こうから掛け声をかけたくなる。河竹黙阿弥も顔負けの七五調の芝居台詞が、いやぁ、実にカッコイイ!確かに、権太楼師匠が「因縁噺の雲サマ」と呼ぶのにふさわしい演出と演技に痺れた。
圓朝作品をはじめ、芝居噺、怪談噺、「お富与三郎」のような因縁噺を先代馬生師匠から受け継いで磨き、いまは弟子の馬石師匠や龍玉師匠もその路線ではとても魅力的な噺家に育っている。滑稽噺を得意とする惣領弟子の白酒師匠を含め、三人の弟子は落語界の看板になりつつある。名人であるとともに、名伯楽。
雲助師匠の高座を今後、もっと多く聴いていきたいと思った高座だった。