古今亭文菊「心眼」 名作落語が“コンプライアンスの曲解”で埋もれないために

タケノワ座オンラインで「文菊のへや」を観ました。(2020・06・24)

「さわり」という言葉が、噺の世界にあります。漢字で書くと「障り」ですね。この配信のマクラで文菊師匠が落語が初めての方にもわかりやすくご説明されていました。足の悪い方が寄席にお客様としてご入場されると、木戸からその情報がすぐ楽屋に入り、その旨を短く書いた紙を前座さんが根多帳の貼ります。目がご不自由な方でも同様です。演者はそれを見て、「さわり」のないように、すなわちお客様が気分を害さないように高座でお喋りし、演目も決めます。

文菊師匠が配信でお演りになったのが「心眼」。盲人となった按摩の梅喜が主人公の噺で、心に沁みる名作なのですが、やはり寄席に目が不自由な方がお越しになった場合は通常、この噺は避けます。また、テレビやラジオなどでは、当然に目が不自由な方への配慮から、放送されることはほとんどない演目です。この日、有料のネット配信である「文菊のへや」で、師匠はあえて、この名作落語をかけた。その英断に拍手を送りたいと思います。

というのも、こんなことをある目の不自由な落語ファンから聞いたことがあります。「メクラや按摩が出てくる落語で良い作品がいっぱいあるのに、私が寄席に行くとかかららない。残念だ。気にかけてのことだろうが、むしろ、それは不親切だ」。その方はCDなどで聴いて、すでにその素晴らしさをご存じで、それをナマで聴きたいと思っていらっしゃる。

「按摩の炬燵」のお店の人々と按摩杢市さんの心の交流に心温まる。「景清」は以前のような彫り物が彫れるよう一心に祈り、願いが叶う名人譚。「麻のれん」はおっちょこちょいの按摩さんの微笑ましいさがキラリと光る。「三味線栗毛」では、按摩の錦木と大名の次男坊との身分を超えた交流に涙がでる。こういう噺がマスメディアの不勉強で放送されないことを危惧する。

世の中の人がよく勘違いしているが、放送禁止用語など存在しないし、ましてや放送禁止落語などない。それはただただ、放送に携わる責任者の現場判断に任されている。不勉強な上に、石橋を叩いても渡らない、コンプライアンスという言葉に捉えようを吐き違えたプロデューサーがいかに多いことか。物事の本質を見ないで、上っ面だけで判断する浅はかさに何度愕然としたしれない。

今、デジタルがどんどん進む時代、マスメディアの存在価値自体が問われている。観たいものだけ、お金を払って観る時代。昔のように「受信料以外、テレビは無料」と思っていた視聴者が多かった時代にクエスチョンが投げかけらているようだ。ネットフリックス、アマゾンプライム、アメバTV・・・。NHKの受信料制度だって、本当に必要なのかが何十年か先には問われる気がする。台風や地震などの災害時のインフラとしてのみ必要とされる時代がやがてくるのではないか。

失礼、話が横道に逸れました。文菊師匠の「心眼」、素晴らしかったです。梅喜さんが品川の療治を終えて帰ってきたときの落ち込みを見て、「様子がおかしい」と女房のおたけが心配し、事情を訊き出す夫婦愛。両親を早くから亡くし、自分が兄として育てた弟・金公に「食いつぶしにきた」「世の中ついでに生きている」と恩を忘れて悪口を言われた梅喜の悔しさ。それを思いやるおたけ。

茅場町のお薬師様に日参し、満願の当日、目が明かないで八つ当たりする梅喜の「畜生!」という心情。実は願いが叶って、目が明いた喜びもつかの間、人力俥に乗っている綺麗な売れっ子芸者と、自分の女房とどっちが綺麗か上総屋旦那に訊く梅喜。おたけは「東京でも一、二を争うまずい女」と知らされ、「みっともない」とつぶやく慢心。「心根は日本一綺麗だ。バチがあたる」と言われても、地べたに座る乞食と比べたがる梅喜の気持ちもわからないでもないが。

さらに、姿見に映る自分の顔を見て「なるほど、あっちはイイ男かもしれませんね」という自惚れ。梅喜に岡惚れしている芸者・山野小春に「目が明いた祝い」にと料亭に誘われ、酒を飲むと「生まれて一番美味い酒だ。目が明くというのは、こういうことかもしれませんね」という言葉には、どこか共感する。小春から一緒に所帯を持ちたいと言われると、「あんな化け物みいたいな女房は叩きだしますよ」と、ついこれまで面倒をみてくれた女房への感謝を忘れてしまう。

その現場を見つけ、亭主の梅喜に襲いかかり、首根っこをつかむ女房おたけ・・・というところで、おたけに起こされ、すべては「夢」であることがわかる。そのときの反省と安堵。梅喜は女房の両手をとって、泣きそうな顔で「感謝」の気持ちを表現している。サゲの「寝ている間はよくモノが見える」も効く。名演だった。涙が流れっぱなしだった。

こういう噺が、変なコンプライアンスという言葉の曲解で埋もれてしまうことがありませんように。微力ながら、話芸の魅力の発信に寄与できたら、と考えます。