「わたし、音楽家なの」5歳の松本優子が、音曲師・桂小すみになるまで(上)

新宿末廣亭で六月中席を観ました(2020・06・17)

夜席の中入り、神田松鯉先生の「雁風呂の由来」の二つ前にあがった音曲師・桂小すみさんの高座に目を見張った。「越後獅子」の替え歌「タネ尽くし」と「さわぎ」を演奏後、三味線は弦楽器であるとともに打楽器なんだとバチで皮を打ち付けるような曲弾きを特徴とする「櫓太鼓」にオリジナルアレンジを加えた曲を5分近くたっぷりと披露した。初代立花家橘之助とともに明治大正期を代表するもう一人の女流音曲師、宝集家金之助が売り物とした曲弾き「櫓太鼓」だ。

のこぎり漫談を寄席芸として確立した八代目・都家歌六師匠(2018年没)はSPレコードを中心とした落語・演芸関係のレコード収集家として有名だったが、歌六師匠の勧めで金之助師匠の「櫓太鼓」を勉強したそうだ。最近、リクロ舎から発売された「柳家紫朝 大津絵 両国」の楽曲解説で、芸能史研究者の岡田則夫さんが「櫓太鼓」にも触れているが、「遠く、近く、強く、弱く、緩急自在に弾く技量が求められる難しい曲である」と書いている。小すみさんは、この曲弾きの前に「うす暗き 櫓太鼓や 隅田川」、後に♪ケロ、ケロ「負けるな一茶 これにあり」と小林一茶の句を加えた工夫をしたのが彼女らしい。

桂小すみ。本名・松本優子。4月2日にこのブログで「なんじゃこりゃあ!」な略歴が魅力だと紹介したが、もっと詳しくその音楽略歴を知りたくなり、インタビューした。

1歳で童謡のLP二枚組アルバムを親から買ってもらい、擦切れるくらい聞き込んだ。「どんぐりころころ」「なかよしこみち」など数十曲が収録されており、彼女の脳に刷り込みされたのではないか。3歳で全12巻の「おはなしレコード」という「桃太郎」「シンデレラ」など洋の東西を問わないおとぎ話が収められた絵本とレコードのセット。レコードには、そのおとぎ話を團伊玖磨など著名な作曲家がオペレッタにしてあり、さらに音楽への興味が沸く。5歳のとき、同じ社宅にピアノの先生が住んでいて、友達と一緒に「習おう!」ということに。そのとき、優子は「私は音楽家だから、ピアノが必要だ」と思ったという。え!?「音楽家になりたいから」ではなくて、「音楽家だから」。すでにこの時点で自分が音楽家だと思っていたというからすごい!

幼少時代は、同級生同様にピンクレディーの「UFO」や「サウスポー」を振り付けで歌う女の子でもあったが、祖母の住む山形にお盆などで長期滞在したときは「おばあちゃんの唯一持っている音楽テープ」が、山形民謡だったため、「花笠音頭」「最上川舟唄」「さんさ時雨」「真室川音頭」などにも慣れ親しんだ。童謡、オペレッタ、歌謡曲、そして民謡。ごっちゃ混ぜの音楽経験がこのときからはじまっていた。そうそう、TBS「日本むかし話」は当時、ラジオでも放送されていて、父親がカセットテープにエアチェックしてくれ、聴き込んだそうだが、そこには「結構、BGMとして寄席囃子が入っていたんですよ」。

ピアノを習いだすと、「絶対音感」のあった優子は幼稚園で先生が弾く演奏に、「違う!」とダメ出し伝説も。楽譜も読めた。でも、ピアノのレッスンは「辛く、上達しなかった」が、大学入学まで途絶えることなく続けていたのは「音楽家の基礎」として大事だという意識がずっとあったからだろう。小5のとき、フルートがやりたくなった。でも、高額だから買えない。教則本を1000円で買ってきて、キー16個を覚え、自分でプラスチックの筒に穴を空けて運指表に従って指遣いを覚えた。当然、音は出ないのだが。脳内で音をイメージ再生していたという。小学校の卒業アルバムには「将来、オーケストラでフルートを吹きたい」と書いている。

書き忘れたが、小学校のとき合唱部に入った。歌を歌うのが好きだったから。「気球に乗ってどこまでも」「空がこんなに青いとは」。また、NHKなどの合唱コンクールの自由曲によく使われた岩河三郎さん作曲の子ども向けの楽曲が好きだったという。で、中学入学とともに、吹奏楽部へ。「フルートが吹きたい!」という一心からだったが、そう思う同級生多数。第2次ベビーブーマーだから、争奪戦激しく、3年生が引退するまでは腹筋運動ばかりの部活動。ようやく中2、中3と憧れのフルートとピッコロが吹けるように!また、吹奏楽部とは別に、音楽の先生が毎年、文化祭でオリジナルの脚本と作曲をしたオペレッタを上演する舞台にも参加した。このころから、この先生のように、「お音楽の素晴らしさを子供たちに教えたい!」と思いはじめたという。

高校入学。やはり、吹奏楽部。友人から借りた「サウンド・オブ・ミュージック」と「ウエスト・サイド・ストーリー」のテープを借りてダビング。また、映画「マイ・フェア・レディ」を観て虜になり、千回以上聴き込んだ。この3つが今でも好きな、三大ミュージカル。ジュリー・アンドリュースの真似を繰り返した。将来は音楽教員になることを前提とした、大学受験をすることを決断した。

大学入試には実技がある。歌にするか、ピアノにするか?先生から「あなたの声は声楽に向いていない」と言われた。東京学芸大学教育学部音楽学科の、オールラウンドにこなせる知識と素養が必要な「中学校課程」を受験し、見事合格。ピアノ、声楽のほか、調音、理論など幅広く勉強したことが、今日の松本優子を築いているのかもしれない。

で、大学の教授から勧められたのが「文部省(当時)の国費海外留学」。見事、選抜試験に合格、歌と踊りとお芝居の舞台芸術を学ぼうと、ウィーン国立音楽大学ミュージカル専攻科を選ぶ。基本的には、ミュージカル俳優になることを前提とした授業。バレエ、ジャズダンス、タップダンス、即興演劇、古典演劇、ミュージカルレパートリー、声楽、呼吸法など多種多彩。こういった経験も、今日の松本優子の血となり肉となっている気がする。国費がでるのは1年だったが、もっと勉強したかったから、ウィーンで2年学んだ。そのまま単位を都合すれば東京学芸大学を卒業することもできたが、「まだまだ勉強したい」と6年間在籍した。そこで音楽教育の基礎を学んだ。ピアノ、フルート、声楽、作曲、打楽器、教育学。基本はクラシック音楽だった。

ただ、1年生から邦楽の授業があり、2年生からは実技もあって、三味線と箏を学んだ。同時に、邦楽研究会というサークルにも入った。箏を演奏する友人の定期演奏会に行った。そこで三味線を演奏していた先輩がいて、すごい!と思い、入会を決めたのだった。邦楽研究会の顧問・野口美恵子先生は、優子が三味線をひとバチ、テン!と鳴らしたのを見て、「あなたを三味線弾きにしたい!」と言ったそうだ。運命的だったのは、オーチャードホールの演奏会を観に行ったとき、三木稔先生が作曲した中国琵琶(ピパ)のためのソロ曲の演奏を聴いて、「かっこいい!このピパのような存在を三味線でやりたい!」。これまで三味線の現代曲は合奏に入ってしまうと、単なるアクセントにすぎなくなってしまっていた。尺八や箏のための曲は良い曲があったが、それがなかったのだ。で、いわゆる「卒論」的なものとして、三味線と尺八を使った現代曲を作曲し卒業した。

そんな松本優子がなぜ本格的に邦楽の世界に入るようになったのかは、明日に続きます。

音曲師・桂小すみ なんじゃあこりゃあ!  10月18日(日)14時開演

@西巣鴨studio FOUR 前売り:2500円 当日:3000円

摩訶不思議だけど、魅力的!三味線とピアノが織りなす桂小すみワールドをご堪能ください。

ゲストの噺家さんの落語もお楽しみに。お問合せ・ご予約は yanbe0515@gmail.com まで。