柳家喬太郎 「何とも面映ゆく、誠に面目ない」30年 番外編

ラジオ第一放送「三宅民夫のマイあさ!」を聴いた(2020・02・24)

22日~24日と3回に分けて、勝手に喬太郎師匠の30年を振り返りました。そこで深く再認識したのは、「芸は人なり」ということでした。喬太郎師匠の高座の魅力は沢山あるけれど、全てはその人柄から発する言葉だったり、マクラだったり、噺なのだぁ、と感じました。ということで、そのことがよくわかるラジオ放送を先日、聴きましたので、急遽「番外編」を書くことにしました。

「三宅民夫のマイあさ!」で、22日午前8時15分頃に放送された「自粛生活 笑顔を忘れず」シリーズに、喬太郎師匠が電話ナマ出演されました。その様子をちょっとプレイバック!(この放送は【らじる★らじる】の聴き逃しサービスで29日午前8時まで聴くことができます)

おはようございます!感無量です。人と喋ることが。家族以外とは久しぶり。嬉しくって。(落語界の状況は?に)わからないんですよ。会わないから。楽屋にも行かないし。当然、落語会は全部中止、寄席も営業自粛。ほとんどの落語家は髭生やし放題。ボーボー。考えること同じなんですね。歌武蔵師匠とメールで画像のやりとりしたんですが、「誰だろう?」って。手ぬぐいでマスク作ったり、体温測ったり、ひっそり冬眠です。

どうしても鬱々となるじゃないですか。世間様と同じように、人との距離をとって散歩。噺を一席でも多く覚えよう、稽古しよう、力をためて、ネタを練って、収束したら、お客様に喜んでもらおう、そういうの一切ないですね。稽古はじめても気持ちが負けちゃう。今、稽古してる噺、いつできるんだろう?ふと気がついたんです。落語家として頑張りすぎちゃうと、そうなっちゃう。落語ファンにもどる。その瞬間が愉しいのではないか。

落語関係の本を読んだり、先輩方のメモを見たり、「日本の話芸」を観たり(「日本の話芸」の件、3回繰り返していました)。落語ファンに素直に戻ると気持ちがウキウキしてくるんですね。当たり前のことをやって、来るべき日に備える。先輩に限らず、仲間や後輩の(録音で)落語を聴いていると、「もう、俺、辞めてしまおうか」と思うことすらありますよ(笑)

仲間と気晴らしに飲みにいこうか、これは一番やっちゃいけない。世間様と同じで。そんな愚痴をこぼしちゃいけないんですが。遡って考えてみると、似たようなことが相当以前にあった。文明とか文化とかが、まだ熟成してない頃。と言って、小噺を披露。

「オー、どうだ?」「俺、コレ獲った!牛、獲った!牛の肉食べちゃう」「俺は魚獲った!」「やっぱり、こういうモノは美味いな」「向こうに何かしている奴がいるぞ。お前、何してるー?肉か?魚か?」「私は稲というものをこしらえているんです」「稲をこしらえる?そんな奴、初めて見た。食えるのか?」「我々は、稲をこしらえて食べているんです」。これが稲作のはじまりで。農耕(濃厚)接触ですな。

ホンのちょっと前まで普通に愉しかったことを思い出すと、哀しくもなるけど、楽しみにするといい。今は家で一人で一杯飲んでいるけど、いつか友達と少しずつ飲めるようになるでしょうから。そう言って、演芸ファンならおなじみの禁酒の小噺「禁酒を2年にして晩酌だけやればいい」「いっそ、3年にして朝晩やろうか」も披露。こういう時代に早く戻りたいですね。人間同士が関われるから落語がある。今は関わっちゃいけないじゃないですか。直には関わるのは難しい。そういう愉しい普通の日に思いを馳せて生きたいですよね。

以上です。コロナ禍で我々は、ごく普通の生活の中で普通にできていたことができなくなってしまった。それを悲観するのではなく、いつかまた、あの楽しい日々が訪れるのを心待ちにしながら、「辛抱」とか「我慢」と捉えるのではなく、発想を変えてみて、楽しみを見つければいいじゃないですか?そういう前向きな喬太郎師匠からのメッセージに人柄が垣間見える。コロナ禍の前に拝聴した愉しい高座を時折思い出しながら、気長にまた寄席で笑える日を待ちましょう。

※「SWITCHインタビュー 達人達 柳家喬太郎×伊藤亜沙」

25日(土)Eテレで夜10時から放送! 再放送は5月2日(土)午前0時(1日(金)24時)