【アナザーストーリーズ】金閣炎上~若き僧はなぜ火をつけたのか~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 金閣炎上~若き僧はなぜ火をつけたのか~」を観ました。
1950年7月2日に金閣寺は放火によって焼失した。この衝撃的な事件を、放火犯である林養賢、この事件を題材に著作した三島由紀夫と水上勉、そして住職だった村上慈海という三つの観点から考察した優れたドキュメンタリーであった。
林養賢は昭和4年、京都府舞鶴市成生という小さな漁村に生まれる。村で唯一の寺である西徳寺の息子で、父は道源、母は志満子。内気で吃音のある子どもで、友達とはあまり遊ばず、目立たない存在だったという。志満子は我が子を僧侶として大成させたいと教育したが、中学に進学すると父が亡くなる。父の口癖は「金閣ほど美しいものはない」だった。
養賢は得度し、金閣寺の住職・村上慈海の許で修業する。大谷大学に入学し、級友と夢や文学を語り合った。尺八がうまく、「俺は金閣の住職になるんだ」と語っていたという。だが、次第に大学を休みがちになる。
供述調書にこうある。私は寺の中で狂人扱いされている様な、主観的考へを持ったこともありました。私はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍らも、亦英雄だといふ人よりは偉い人間だといふことも時々考へが起るのであります。
成績は2年生、3年生になると徐々に下がり、欠席も多かったために79人中79番となり、「これでは留年してしまう」と住職に説教されていたという。養賢は犯行の一か月前に級友に一枚の写真を見せた。三階の究竟頂の屋根も鳳凰も全部真っ白な雪景色の金閣。「一番好きな金閣や」と言っていたという。精神状態鑑定書によれば「金閣を支配できないなら、金閣と共に死のう」と記されている。
7月2日午前3時。西陣署の若木松一警部補が残した「若木メモ」と呼ばれる供述調書にはこうある。最上階の究竟頂で金閣とともに死のうという考えが起き、二階に上がろうとしたが、鍵があかず、火が勢いよく吹き上がってくると、恐ろしくなり、金閣を飛び出し、大文字山に走り上がった。
養賢は山の中腹で睡眠薬を飲むが、死ねなかった。警察が血を流して倒れているところを発見し、身柄を拘束した。「国宝金閣の建物、同足利義満像を炎上せしめて焼毀したものである」。私が放火した犯人に相違ありません。私の主観では悪い事をしたとは思ひません。こう、供述している。
さらに3回目の供述。私が金閣を焼いた事は私の行ひを見ると醜いので、美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持は表現しにくいのであります。
愛憎をともにする犯行。好きだけれど、それに縛られて重荷になっていたのだろうか。母の志満子が面会に来るが、拒まれて、帰りの列車から投身自殺した。そして、養賢には懲役7年の判決が下された。
これを題材に三島由紀夫は小説「金閣寺」、水上勉はノンフィクション「金閣炎上」を著した。エッセイストの酒井順子は2人は全く異なる視点でこの事件を描いていると指摘している。すなわち、三島は表日本の視点、水上は裏日本の視点という分析だ。
三島の創作ノートにはこうある。美に対する嫉妬。そして、絶対的なものへの嫉妬。絶対性を滅ぼすこと。絶対者=人生を困難ならしむもの、だからそれを滅ぼす。金閣の美は滅ぼす絶対性だとしている。
酒井によれば「主人公溝口が戦争によって金閣寺や京都が焼けてしまえばいいのにと思った。それがならなかったことに対する失望がそこにある。そんな中で溝口が自分に求めている“美”に接するために金閣寺を燃やすというのは三島の感覚と繋がっている」。
戦争によってすべてが滅びるはずだった。だが、敗戦後の人々は何も変わっていない。戦後社会に対する三島の内面が表れている。「金閣寺」では溝口が金閣を焼こうとしたとき、突如「生きよう」と言わせている。
私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。
戦後社会と折り合いをつける…それが「生きよう」という決意に表れている。
一方、水上勉は駆け出しだった頃に金閣焼失を体験し、その後20年かけて「金閣炎上」をノンフィクションとして発表した。金閣焼失に触れたときのことをこう書いている。
新聞の一字一字は私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた。浦和にいるのがもどかしかった。京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいただろう。
水上は福井の貧しい家に生まれ、口減らしのために十歳のとき京都の禅寺に小僧に出される。厳しい修業に耐えられず、還俗した。酒井の分析によれば、「自分がやってもおかしくない」と思ったのではないかという。直木賞受賞作「雁の寺」は辛い修業生活のために住職を殺めてしまう作品だ。
水上は60歳近くになって、養賢の故郷の成生を取材し、執筆する。冒頭、水上は養賢と青葉山で出会ったと記している。
私は絶句した。六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで遭った中学生がやったのだ。帽子を阿弥陀にかぶった額ぎわのせまい男。私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。あの男が火をつけたのか。
しかし、そのような事実はない。では、なぜノンフィクションに虚構を入れたのか。二人の繋がりを運命的に作り上げることで真実を語ることができると考えたのではないかという。
私が先に養賢に金閣放火を決意させたものは、「金閣寺内の事情をおいて考えられない」と再々いってきたのはこの消息である。
酒井が読み解く。平等であってしかるべき仏教の世界の中にも色々な区別や差別があったりとか。林は仏教の世界に対する思いが募って、内側から問題提起をしたいという意味もあって、放火をしたんじゃないか。水上はそう考えたのではないか。
水上はこう書いている。お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った。ぞうきんにはにおいもある。そのいおいを私は書きたかった。
金閣寺十六世住職の村上慈海は金閣焼失を背負った。弟子の西田承元は「養賢について一言も口にしなかった」と言う。師匠の育て方が拙かったという世間の批判があるが誤解である、と。慈海と養賢の間に何があったのか。
若木メモに養賢が書きなぐった文字がある。生とは如何?死とは如何?生死なんて全く無意味だ。慈海に生きる意味を問うた養賢に「生きることは無意味なんだ」と答えたのか。僧侶の玄侑宗久は「人間は生まれちゃったから生きている。本来生きる意味なんてない。それが養賢にはショックだったのでは」と分析する。
慈海は金閣焼失について抗弁せず、再建計画を立てる。終戦から5年。周囲の反応は冷ややかだった。だが、町々を托鉢して廻り、市民は支援しようと心を動かされる。
服役中の養賢から夥しい手紙が届いた。あの夜のことが、いまひしひしと悔いられ土に伏したい気持ちであります。おゆるし下さい。おゆるし下さい。何とぞ、おゆるし下さい。寺からも衣類や書籍が差し入れされた。
焼失から2年後、全国5万人の寄付が集まり、金閣寺再建工事がはじまった。昭和30年10月、落慶式。その月に養賢は釈放されたが、肺結核のために入院。翌年3月7日に逝去。享年二十六だった。
慈海はその後、30年にわたり“長老さん”と呼ばれ、市民に慕われた。檀家の位牌が置かれている仏間に、養賢と母の志満子の位牌も安置されているという。養賢の戒名は「正法院鳳林養賢居士」、志満子の戒名は「慈照院心月妙満大姉」。慈海の心遣いと言われている。養賢の戒名の「鳳林」は金閣の頂上にある。養賢への慈しみだろう。
村上慈海は昭和60年8月12日に八十三歳で亡くなった。金閣寺に捧げた生涯だった。
林養賢は単なる犯罪者ではない。人生とは何かを問うという、人間として当たり前のことで苦悩した男だ。ただ、それが金閣寺放火という誤った選択をしてしまった。師匠の慈海とともに極楽浄土で人生について語り合っているのではなかろうか。

