【熱談プレイバック】恋とおしゃれと桜 宇野千代伝

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 恋とおしゃれと桜 宇野千代伝」を観ました。貴重なアーカイブ映像と田辺いちか先生の講談のコラボレーション、今回は恋多き女性だった作家の宇野千代の一代記だ。
明治30年に山口県岩国で生まれた千代は、「飲む買う打つ」の道楽に溺れた父親の許で育った。その父親が千代十六歳のときに病死すると、「自分のやりたいことをやろう!」と十七歳で小学校の教員になる。そして、小説や文芸雑誌を読み、同人誌を作った。だが、同じ学校の教師と恋をしたことが校長にばれ、免職処分になってしまう。
銀行員と結婚し、札幌で生活するが、時事新報の短編小説募集に応募すると、見事に一等賞となり、自分の才能に気づく。二作目を書いて、中央公論社に送ったがなしのつぶてだったので、東京の本社に乗り込むと、実は採用されていて、次号に掲載されるという。そして貰った原稿料が当時の会社員の月給の半年分だったことに驚き、「文学で身を立てよう」と志す。
24歳のとき、作家の尾崎士郎と出会い、一目惚れ。その日のうちに男女の仲となり同棲、そして前夫との離婚を成立させて、結婚する。尾崎の助言を受けながら、人気作家の仲間入りをした千代だが、「このままものまねを続けていいものか。自分の小説を書きたい」という願望に駆られ、伊豆湯ヶ島に行く。そこには梶井基次郎がいて、情を交わすがうまくいかず、睡眠薬と酒に溺れる。だが、文学への情熱は衰えることがなかった。
当時、心中未遂を起こした画家の東郷青児を取材したいと東郷を訪ねると、そこには黒いシミと赤い血がついた布団があった。傷をもった者同士が孤独を埋め合うように愛し合った。そして、東郷の心中事件の顛末を洗いざらい聞き出した千代はこれを基に「色ざんげ」を書きあげ、発表する。3人の令嬢との恋を画家が独白するという文体で、聞き書きというスタイルを確立した。その後も「おはん」や「人形天狗屋久吉」などを発表。男性との恋を文学へ昇華する宇野千代がここから生まれた。
昭和11年、千代39歳のとき、日本初の本格ファッション雑誌「スタイル」を創刊する。これまでにないおしゃれを扱った雑誌は大ヒットをする。そんなときに出会ったのが、新聞記者の北原武夫だった。千代の方から猛烈にアプローチして、結婚。雑誌「スタイル」の共同経営者にもなった。
昭和21年に戦後第1号の「スタイル」が発売されると、また当たった。千代たちはキャバレーを豪遊し、銀座に豪華な社屋を建て、熱海に別荘を持ち、骨董品を買い漁った。金は無尽蔵にあると思った。ところが、国税局の査察が入り、巨額の脱税が発覚。会社は倒産し、借金地獄に陥った。死ぬ気になれば、切り抜けられる。そう信じて、北原は原稿を書きまくった。
千代はある日、店先で一反の白生地の反物を目にする。これを自分の考案した図柄で売りだしたらどうか。染色工場に持ち込み、おしゃれに賭けた。すると、この反物が「素敵だわ」と評判を呼び、面白いように売れ、着物デザイナーとして活躍。アメリカの博覧会の着物ショーに出品しないかと誘われ、ハイヒールに細い帯と大胆にアレンジした、常識にとらわれない着物は絶賛された。
そして、昭和39年に借金は完済することができた。そのとき、北原は「新たな人生に進みたい」と別れを切り出す。千代は「いいわよ」とあっさり受け入れた。67歳のときである。後年、「追いかけるなんて嫌だった。恋愛の武士道です」と振り返っている。
昭和42年、千代70歳のとき、小林秀雄に岐阜根尾村の淡墨桜のことを教えられる。樹齢1200年、三丈八寸の胴回りがある桜が蘇った話だ。千代は居ても立っても居られず、根尾村を訪れると、そこには今にも枯れそうな無惨な老木の姿しかなかった。千代は「もう一度、この老木に満開の桜を咲かせたい」という思いに駆られた。昭和24年に前田利行という樹木医が根継ぎをおこなったことがわかった。
千代は前田を訪ねるも、「父は去年亡くなった」と息子が言う。だが、根継ぎに携わった植木屋と大工はいると言う。千代は県知事や新聞社に呼びかけ、協力を求めた。そして淡墨桜の再生計画は成功し、日本三大桜と称されるまでに奇跡の復活を果たした。
情熱の人、宇野千代はこんな言葉を遺している。いまあなたの上に現れてゐる能力は氷山の一角。真の能力は水中深く深く隠されてゐる。恋愛遍歴ばかりが強調されがちな千代だが、おしゃれにしろ、桜にしろ、とことん思い込んだら命懸けで取り組む。その生き方に感銘を受けた。

