立川寸志 十八番を仕込む会「井戸の茶碗」、そして桂吉坊独演会「そってん芝居」

「立川寸志 十八番を仕込む会」に行きました。「鮫講釈」「三方一両損」「井戸の茶碗」の三席。前座は立川のの一さんで「真田小僧」だった。

「井戸の茶碗」。細かいところだが、寸志さんの独自性を感じて興味深かったところが二点。一つは屑屋清兵衛が高木作左衛門から頼まれて五十両を返却するために、千代田卜斎を訪ねたとき。仏像を200文で預かったが、高木氏に300文で売れたので、100文の儲けが出たから、折半で50文を清兵衛が千代田氏に渡そうとする。だが、千代田氏は「商売で儲けたのだから」と言って、この50文を受け取らない。すると、あっさり清兵衛はこれを受け取る。この後、五十両の大口があるから、50文など微々たるものと判断したのだろう。

もう一つは五十両を巡って千代田、高木両氏がどちらも受け取りを拒むので、千代田氏の住む長屋の大家が仲介したとき。両氏に20両ずつ、そして残りの10両を骨折り代として清兵衛に渡すという案でまとまる。高木氏は了承し、20両を受け取るが、千代田氏にも20両を渡さねばならない。ところが、大家は「千代田様は面倒くさくて嫌いだ」と言って、任務を清兵衛に一任してしまう。戸惑う清兵衛に対し、大家は「お前も10両貰っているのだから文句あるまい」と言って、押し切る。

この二点から感じるのは、屑屋清兵衛や大家の人間臭い部分だ。花は桜木、人は武士。清廉潔白も良いけれど、融通の利かない千代田、高木両氏の何かと言うと、刀を持ち出し、「手討ちにするぞ!」という頑固は寧ろ迷惑だ。本音で生きる平民の大家や屑屋の方がよっぽど正しいのではないかという提示にも感じた。

それでも、武士としてのカッコ良さもこの噺から感じることができる。高木作左衛門の「仏像は買ったが、中の小判まで買った覚えはない」という正直さ、そして「何か深い仔細があるに違いない」という優しさが素晴らしい。それに対し、千代田卜斎の理屈も理解できる。「祖先が何か子孫が困った折に、と仕込んだものに違いない。先祖の思いを無にしてしまった。このような不徳な人間が五十両は受け取れない」。さらに「己で己に痛く立腹した。心の臓を握り潰して、死んでしまいたいくらいに恥ずかしい」。

両者とも悪い人間ではない。寧ろ、身分を笠に着て威張り散らし、不条理なことをする武士もいる中、極めて立派な武士である。その上で、「清廉潔白も程が大事だよねー、融通を利かせることもしなくちゃねー」というメッセージがこめられた落語だと思った。

桂吉坊独演会に行きました。「祝いの壺(雪隠壺)」と「そってん芝居」の二席。開口一番は三遊亭歌きちさんで「元犬」、お囃子は恩田えり師匠だった。

「そってん芝居」。桂米朝が復刻した噺を、弟子の吉朝、その弟子の吉坊と受け継がれていることが素晴らしい。噺の最後は江戸に移植されて「蔵前駕籠」になっているが、この噺の面白さは芝居噺となっている前半から中盤にある。

吉坊師匠はマクラで十一月の歌舞伎座は仮名手本忠臣蔵の通し狂言という話題に触れ、大序から十一段目までのストーリーを、「おかると勘平がいなかったら、あんな話にならなかった」等、色々とツッコミを入れながら、かいつまんで10分少々でダイジェストとして紹介したところから、興味深い。

本編は歌舞伎の台詞、所作など素養がないと出来ない本格的なもので、吉坊師匠のすごさに感服した。お囃子のえり師匠の三味線も実に効果的だ。堺の叔父が大病なので見舞いに行くという旦那、髪結の五十市を呼んで整髪させるのだが、この五十市が芝居好きで…。二段目の松切り、三段目の喧嘩場を旦那と五十市のかけあいで演じるところは、圧巻。

さらに、髪を結うところはだんまりで、三味線に合わせて仕草だけで魅せる。上方の噺家でもここまで出来る人はどれくらいいるのだろうか。とても良い高座を聴いて、幸福感に溢れた。