【アナザーストーリーズ】マラドーナが“神”になった日

NHK―BSで「アナザーストーリーズ マラドーナが“神”になった日」を観ました。

1986年、サッカーワールドカップ準々決勝アルゼンチンvs.イングランドにおけるディエゴ・マラドーナのプレイは今も語り草である。後半6分の「神の手」、そして後半9分の「5人抜き」の2つのゴールについて詳しく分析している優れたドキュメンタリーだった。

イングランド代表のキャプテンであり、ゴールキーパーだったピーター・シルトンは「あれは神の手ではない。ペテン師の手だ」と言いながらも、マラドーナのサッカー選手としての類稀なる才能は高く評価している。

この試合は因縁の対決だった。82年にフォークランド紛争が勃発。イギリス軍が武力でこれを鎮圧したが、アルゼンチン側の死者は600人に達した。マスコミは「復讐のチャンスか」と騒いだが、マラドーナは「銃を持ってピッチに立つわけではない。ただサッカーをするだけだ」と冷静を装った。

イングランドの作戦はマラドーナに兎に角ボールを持たせないこと。パスもドリブルも封じ、ゲームから締め出す。作戦は功を奏し、前半はマラドーナを黙らせた。だが、後半6分。イングランド選手の蹴ったボールがゴール前に上がり、シルトンはパンチングで防ごうとすると、ボールは既に消えていて、ゴールに飛び込んでいた。シルトンの手の上にマラドーナの手が伸びていたのだ。イングランドは審判に猛抗議をするが、それをかわすようにマラドーナは歓喜のパフォーマンスを続ける。

疑惑の先制点。チームメイトが「手でやったんだろ」と訊くと、マラドーナは「静かにしろ。俺は喜び続けるから」と言った。当時はビデオ判定というものはなく、審判はゴールを認めた。シルトンは「スポーツマンとして最低だ」と思ったが、マラドーナは「俺の頭と神の手によるもの」と意に介さなかった。

その3分後。マラドーナは「5人抜き」を見せる。イングランドのベアズリー、リード、ブッチャー、フェンウィック、そしてシルトンの5人をスピード感あるドリブルでかわしてゴールを決めたのだ。奇跡的なプレイだった。チームメイトのホルヘ・ブルチャガは「あの試合で彼は10番を背負った『神』になった」と振り返る。

1980年代、アルゼンチンはインフレ率300%という異常な経済不況に見舞われ、政府と市民は衝突し、物資は不足を極めた。アルゼンチンのユニホームはブルーとホワイトのストライプだが、対戦相手が似た色の場合は抽選となる。決勝トーナメント1回戦のウルグアイ戦も、準々決勝のイングランド戦もアルゼンチンは抽選に外れ、ビジター用の青色ユニホームの着用を余儀なくされた。着慣れないユニホームは資金不足のために厚手で動きにくく、不公平な戦いに臨む。

イングランド戦はフォークランド紛争の雪辱戦と世間は見ていた。マラドーナはチームメイトに言った。これは単なる復讐ではない。亡くなった者は帰ってこない。試合後は敵も味方もわだかまりを無くしたい。だからこそ、我々はこの試合に勝たないといけない。負けの上に負けを重ねたら、さらに対立が深まってしまうから。

ブルチャガはあの「神の手」は死角にいて、「よくわからなかった。でも、審判が認めたのだからゴールだろう」。そして、「ディエゴのすごさはこんなものじゃない」と思ったという。5人抜きを一番傍で見ていたブルチャガはパスを待っていたが、「これは自分いく気だな」と察した。フェンウィックを狙って突進したのは計画通り。あの長い距離を最高のフェイントで抜き去った。「ボールにこれだけ愛された選手はいない」と。

マラドーナはこう振り返っている。俺が決めたゴールは島で戦死した若者たちとその家族に捧げられたものだ。彼らをほっとさせ、なぐさめることが出来たならうれしい。けれど、もう同じようなことはできなくていい。だって、もう戦争は起きないから。

試合はこの後、イングランドの猛反撃に遭うも、2-1でアルゼンチンが勝利した。この勢いのまま、決勝戦ではブルチャガがゴールを決めて、西ドイツを破って優勝した。

ブルチャガが振り返る。彼が神になった瞬間を選ぶなら、あの5人抜きだ。1つ目のゴール(神の手)との違いも神の御業だ。因縁のある敵にアンフェアだという「怒り」を持たせたままで終わらず、その怒りを「驚きと感動」に塗り替えたのだ。

マラドーナには9歳年下のウーゴ・マラドーナという弟がいる。86年のイングランド戦の兄の活躍は自宅のテレビで見守った。「神の手」については、「バレなくてよかったな、兄貴」と思い、「5人抜き」については「俺の言う通りに決めてくれた」と思ったという。

80年、イングランドとの親善試合で、マラドーナは4人を抜いてシュートを放つも、惜しくもゴールの枠を外した。テレビ観戦していた11歳のウーゴはディエゴに電話で言った。「あそこまでドリブルしたら、キーパーも抜いちまえば、簡単に決められたのに」。兄はそのときは「お前に何がわかる」と怒ったが、86年のイングランド戦後に「お前のアドバイス通りやったら、決められたぜ」と言ってくれたという。

マラドーナは86年ワールドカップの大会MVPに輝き、86-87シーズンのセリエAで所属するナポリを初優勝に導いた。世界一の名声を得たマラドーナは我儘を言って、当時18歳だった弟のウーゴをナポリに加入させた。しかし、経験不足から、一試合も出場できなかった。天才である偉大な兄との違いを思い知らされ、ウーゴはヨーロッパのチームを転々としたが実績は積めなかった。

そんなときに、日本に行ってみないか?と誘いが来る。Jリーグがスタートする前年の92年だった。兄の反対を振り切り、来日。日本人選手とサッカーの基礎を一から勉強し直した。97年、コンサドーレ札幌で27試合19得点を挙げ、Jリーグ昇格の原動力となった。その年、ディエゴは引退。「お前にしか出来ないキャリアを積んだな」と褒められた。

ヨーロッパでは44試合3得点だったが、日本では172試合86得点。2000年に引退し、兄の第二の故郷であるナポリに移り住む。兄とは常に連絡を取り続けていたが、脳の手術を受けた直後の連絡を最後に、2020年12月25日、マラドーナは逝去した。死因は不明である。現役時代から薬物使用などで世間を騒がせた男らしい、早すぎる死だった。

ウーゴは兄の言葉を忘れない。俺は国の代表ではなく、貧乏人の代表なんだ。その俺が世界の頂点に立てた。「兄貴が示してくれたのは自分で自分の道を切り拓く姿勢。埋もれるわけにはいかない、意地でも目立ってやるという姿勢だった」。最高の選手としてではなく、最高の兄貴と誇らしげに語るウーゴが印象的だった。