【英雄たちの選択】時代がつくった“特撮の神様” 円谷英二

NHK―BSで「英雄たちの選択 時代がつくった“特撮の神様”」を観ました。
円谷英二といえば、ゴジラやウルトラマンなど僕らの世代が子どもだった頃に夢中になった映画やテレビにおける神様的な存在だ。彼が歩んできた道のり、特に昭和29年の「ゴジラ」公開以前の知られざるエピソードが大変興味いドキュメンタリーだった。
円谷は大正8年に18歳で松竹に入社、60作以上の映画のフィルム編集に携わった技術者だった。昭和8年、32歳のときにアメリカで制作された「キング・コング」に衝撃を受ける。1秒間24コマのコマ撮り。莫大な手間と時間をかけた特撮が主役の映画に驚きを隠せなかった。「この映画を見たとき、私は本当に三日三晩眠れないほど驚き、興奮したものです」。
円谷は会社に頼んで「キング・コング」のフィルムを焼き増ししてもらい、一コマ一コマを丹念に研究した。だが、日本では当時、時代劇が主流であった。「私が松竹にいる頃、特殊技術を提唱したとき、重役が『日本じゃ、ろくなもんは出来っこないのだから、アメリカ映画に任せておけばよい』と言った」。
日中戦争がはじまり、昭和14年に映画法が制定され、映画は国の統制下に入った。シナリオは検閲制、配給や製作も許可制、フィルムは配給制。娯楽ではなく、国威高揚の戦争映画が奨励された。表現は不自由だが、予算は潤沢にある。そうした中、特殊技術撮影が日の目を見ることになる。円谷は東宝に移籍、昭和17年、24歳のときに「ハワイ・マレー沖海戦」を製作。精密なミニチュアセットで真珠湾攻撃を再現、火薬をミニチュアの小屋に仕掛けて屋根を飛ばした。爆撃5000発のリアルな戦闘シーンは観た者に「本物だと思った」と言わせる迫力があり、円谷英二の名前を世に知らしめた。
だが、日本の戦況は厳しくなる一方だった。防空演習、学童疎開、金属回収…日々苦しくなっていく国民の暮らしと映画の戦地での華々しい勝利がかけ離れたものとなっていく。昭和19年の「雷撃隊出動」は南洋の海軍航空基地を描いた映画だが、物資不足、戦闘機不足により、軍人精神を賛美しながらも、勝つ見込みのない戦争に特攻でしか一矢を報いることができない悲壮感が漂っている。
昭和20年8月1日についに円谷にも召集令状が来るが、その二週間後の8月15日に終戦。3年9カ月にわたる太平洋戦争にピリオドが打たれた。ポツダム宣言により軍国主義に加担した者は公職追放。軍人、政治家のみならず、教職員や経済人、マスコミ関係者など、その数は21万人に及んだ。東宝創業者の小林一三、大映社長の菊池寛なども追放された。そして、昭和23年3月に円谷も公職追放となる。これには「ハワイ・マレー沖海戦」で名の知られた円谷がGHQに狙い撃ちされたとも言われている。
やがて、東西冷戦がはじまり、公職追放は解除された。昭和25年、朝鮮戦争。日本の立場は非軍事化から共産主義の防波堤へと方針転換がされ、警察予備隊が創設された。そして、円谷は4年ぶりに東宝に復帰する。
昭和29年、焼津のマグロ漁船、第五福竜丸がビキニ環礁で被曝、23名が放射能を浴びる。この事件に触発された東宝は映画「ゴジラ」の製作を発案する。当然、白羽の矢が立ったのは円谷だ。「キング・コング」で特撮の衝撃を受けてから20年後にして、「観客をウナラせる映画を作るチャンスがめぐってきた」と円谷は喜んだ。だが、「キング・コング」は撮影期間1年、製作費67万ドル(日本円にして25億円)なのに対し、与えられた期間は3カ月、予算は6000万円だった。これではコマ撮り撮影はできない。それに加え、制作スタッフが不足していた。
だが、円谷は製作を強行する。初代ゴジラは高さ2メートル、ゴムとプラスチックでできた100キロの着ぐるみ。これにアクターが入って演技をする方法しかなかった。これでゴジラの動きをハイスピードカメラで撮影する。すると、思いがけない重厚感が出た。また、ミニチュアにも工夫を凝らした。熱線で溶ける鉄塔は蝋で制作するとリアリティが出た。国会議事堂は石膏で作り、コンクリートが崩れるイメージにピッタリはまった。昭和29年11月3日公開。初日に観客動員数は「七人の侍」を超え、大絶賛の嵐。通算動員は960万人に達した。
円谷はその後、テレビの世界でも活躍。62歳にして、円谷プロを立ち上げ、「ウルトラマン」シリーズの放送を開始。昭和43年の「ウルトラセブン」最終話まで製作に関わった。そして、昭和45年1月25日、永眠。2025年にはアメリカ視聴効果協会(VES)で日本人初の“殿堂入り”を果たした。
円谷は生前、子供向け百科事典の中で、自分のことを「怪獣映画の円谷さん」と言われることを心外だと書いている。昭和36年の映画「世界大戦争」は第三次世界大戦を描き、核戦争の恐ろしさを訴えた。「水爆や原爆の実験に反対する意味でこの映画を作った。一度見た人なら必ず、この映画から受けたショックを記憶し、水爆がどんな恐ろしいものかをまざまざと感じ取ったことと思う」。
戦時中に戦意高揚によって映画製作の世界で名前が売れた円谷英二は、太平洋戦争を経て、二度と戦争などという愚かなことはしてはいけないという「平和への思い」をこめて特撮に命を懸けたのだ。その熱い思いが伝わってきた。

