喬太郎師匠の女性表現力のすごさ~古典こもり

東京芸術劇場プレイハウスで「古典こもり 鯉昇・喬太郎二人会」を観た。(2019・6・21)

落語ファンなら言わずもがなだが、改めて喬太郎師匠の女性の描き方というのであろうか、演じ方というのが妥当なのだろうか、そのバリエーションの豊かさとクオリティの高さを、陳腐な表現だが、「すごい!」と思った。

「縁切榎」。これは二人のタイプの女性のもてている優柔不断な男が、身を固めるために、どちらかを選ばなければいけないのだが、どちらも魅力的で情があり、決めきれない・・・という噺である。

一人の女性は花柳界の芸者。艶っぽくて、可愛らしくて、それは商売柄身に付けたものなのかもしれないが、その男に対してはそういう計算抜きに一途な思いを示す純朴さがある。師匠はそのあたりの女性の魅力を「男だったらだれだって、堪らないよ!」と思わせるだけでなく、女性客も「わかる、わかる、その気持ち」と共感させる巧みな台詞遣いと仕草で表現する。

もう一人の女性は武家の娘。柳田格之進の娘・きぬのような、一本筋が通った女の気構えがある上で、この男に対しては「心を許している」ことを出さないようにしながらも、誠心誠意尽くしていて、そこには芸者とはまた違う種類の可愛らしさ、一途さが感じられ、「むしろ、こういう女性と一生暮らしたら、幸せかも」と思わせるキャラクターが台詞と表情に込められている。

硬軟、という簡単な言葉では言い表せないかもしれないが、わかりやすくいうと、その硬軟2タイプの女性の魅力は甲乙つけがたく、主人公の男を「優柔不断な奴!」と責められない。むしろ、男だったら、同時期にこの2タイプの女性とお付き合いしたら・・・なんて妄想を抱いても仕方ないかも!と思ってしまうくらいだ。両天秤にかける恋などしたことがない小生には夢のまた夢だ。

最終的には、実はこの二人の女性がこの男のことを「優柔不断ゆえなのか」見限っていた!というサゲになるところが、いかにも落語で、そこが肝の噺なのかもしれないが、僕はそこまでに至る芸者と武家の娘を行ったり来たりする主人公の男の優柔不断が愉しい噺だと以前から思っていた。それは、二人のタイプの違う、それぞれに魅力的な女性を演じ分けることのできる喬太郎師匠だからこそであり、この日もその卓越した表現力は、もはや技術ではなく、了見だと思った。