古典廻し 立川笑二「妾馬」田辺いちか「忠僕直助」、そしてPARCO劇場「カッコーの巣の上で」

「古典廻し」に行きました。立川笑二さんが「妾馬」と「元犬」、田辺いちかさんが「お伊勢太郎」と「忠僕直助 誉れの刀鍛冶」だった。
笑二さんの「妾馬」。八五郎とお鶴の兄妹は両親が早逝し、大家が親代わりとなり、長屋の皆が家族同様に育てあげたという設定が素敵である。お鶴が赤井御門守の側室となり、お世継ぎを産むという大出世を果たし、八五郎が招きを受けて、屋敷を訪ね、お鶴と再会したところの台詞が良い。
お鶴じゃねえか。随分と可愛がってもらっているみたいで、良かった。糊屋の婆さんなんか、「初孫だ」と喜んでいた。熊の野郎もかっぽれを踊っていた。「長屋の衆で育てたんだから、初孫みたいだ」と。兄ちゃん、お前に謝らなきゃいけない。俺はお前を悪く言っていた。「恩知らずだ、そんなに長屋の暮らしが嫌なのか」って。そうしたら、皆に怒られた。「何でお鶴ちゃんが出て行ったか、わからないのか。お前はちゃんと稼いでいたか。お鶴ちゃんは『私がいるから、兄ちゃんは駄目になる。出て行けば、考えてくれるだろう』、そう考えたんだ」。ハッとさせられた。今まで苦労をかけて申し訳なかった。兄ちゃん、あれから、博奕やめて、ちゃんと働いているんだ。
お鶴のお陰で、八五郎は改心し、更生した。なんて素晴らしいのだろう。そして、この兄妹にとって、長屋は家族のようなものというのが良い。八五郎はこうして自分だけお鶴とその赤ん坊に会えたことを長屋の皆に申し訳ないと思った。そして、殿様に長屋の連中にもお世継ぎを見せてやりたいと願い出る。殿様は深く感じ入り、「目通り許すぞ」。素敵な人情噺に仕上がった。
いちかさんの「忠僕直助」。主人岡島八十右衛門が大野九郎兵衛に鈍刀のことで「知行泥棒」「禄盗人」と辱められたことを知った下僕の直助は大野に対し、いつか仇を討ってやると考え、大坂の名工、津田越前守助広に弟子入り志願をするという忠義が素晴らしい。
兄弟子たちの仕事を観察し、毎日毎日気力を集中して技を盗み、僅か三年で十年修業している惣領弟子の三八の上をいく腕の持ち主になっていた。師匠助広の向こう槌を自ら志願し、「打ち損なったら、出て行く」覚悟で臨むところ、それは一日でも早く上達し、主人岡島に仇を討ってもらいたいという一念がなせる業であろう。
果たして、直助の腕は師匠助広を「お前は誰の弟子だ?これまで、どこで修業してきた?実に良い仕事。これを三年、五年で出来るわけがない。脇で十年は修業してきた腕前である」と言わしめた。直助が神信心をして、他の誰よりも濃密な修業を三年間続けた理由(わけ)を知ることで助広も得心がいった。技術だけでなく、「心掛け」が高貴な守り刀を鍛えるのだと。
直助は助広の養子となり、名を助直と改め、故郷赤穂に錦を飾り、見事岡島八十右衛門は黒田に対して積年の恨みを晴らすことに成功することができた。これぞ、下僕の鑑。岡島は吉良邸討ち入りでも、直助の鍛えた刀で活躍をしたという…。気持ちの良い赤穂義士外伝だった。
PARCO劇場「カッコーの巣の上で」を観ました。原作:ケン・キージー、脚色:デール・ワッサーマン、翻訳:高田曜子、上演台本・演出:松尾スズキ。
「カッコーの巣」は、英語の俗語で「精神病棟」を意味するそうだ。アメリカの小説家ケン・キージーが27歳のときに発表した小説だが、キージーはスタンフォード大学大学院在学中に退役軍人病院で夜勤のアルバイトをしながら精神病棟を間近で観察し、さらに、CIAの資金提供のもと同病院が行っていた薬物実験の被験者となり、LSDやメスカリンなどの向精神薬を投与された経験を持ち、この「カッコーの巣の上で」を執筆するインスピレーションになったと、パンフレットで立教大学文学部教授の舌津智之さんが書いている。
原作小説と、その翌年にブロードウェイで舞台化された劇作家デール・ワッサーマンの脚色の違いを舌津さんがわかりやく解説して興味深かったので引用する。
オリジナル小説最大の特徴は、インディアン―原作出版当時、「先住民」という呼称は広まっていなかった―の血を引く男、チーフ・プロムデンが一人称の語り手になっていることだ。作品には、彼の幻覚や妄想が入り混じる主観的かつ詩的な叙述が随所に織り込まれ、かつて白人から土地を奪われた民族の記憶を背負うチーフの孤独と解放がテーマの主軸になっている。作品の舞台をなす精神病棟という閉鎖空間は、チーフの目という特異なレンズを通すことで、社会からの逸脱者を監視・矯正しようとする権力構造の縮図として浮かび上がる。
これに対し、劇作家デール・ワッサーマンが脚色した舞台版では、演劇という動的なジャンルの性質上、チーフの静的な語りは後景に退き、代わりにマクマーフィーが主人公として前へ出る。彼は、人間を歯車として管理する抑圧的な社会に立ち向かう、奔放な個人主義の体現者として舞台に現れる。その背景には、物質的な豊かさとは裏腹に、精神的な画一化が進む冷戦期アメリカの体制順応主義があった。ここにおいてつまり、精神病院とは、ほかでもないアメリカという国家そのものの不穏な比喩となる。以上、抜粋。
この解説を終演後に読み、なるほどと膝を打ち、腑に落ちた。物語はラチェッド看護婦長に象徴される「支配的な体制」と、マクマーフィーに象徴される「自由奔放な個人」の二項対立のように見えたが、チーフ・プロムデンの存在によってさらに重層的な解釈が出来ることがわかった。
翻訳を担当した高田曜子さんがプログラムでこう書いている。
翻訳をしている中で印象的だったのは、この戯曲が「正しさ」の物語ではない、ということでした。病院と患者、管理する側とされる側、正常と異常―そうした単純な対立だけでは整理できない人間の複雑さが、会話の端々に滲んでいます。誰だって格好よく生きられるわけじゃない、だからこそ、必死に虚勢を張ったり、笑ったり、誰かに認められようとする姿が、ときにおかしく、とても切実に見えるのだと思います。以上、抜粋。
管理社会の中で、上手に立ち振る舞えることが正解ではない。寧ろ、勇敢に立ち向かっていくことが大切だし、立ち向かうことのできない弱者を思いやる気持ちももっと大切だと思う。マクマーフィーはヒーロー的に描かれてはいるが、自分では決してヒーローとは思っていないだろう。自分の中に存在する「マクマーフィー」に問いかけてみた。

