【熱談プレイバック】昭和の花咲かじいさん物語

NHK総合で「熱談プレイバック 昭和の花咲かじいさん物語」を観ました。貴重なアーカイブ映像と講談師・神田阿久鯉の話芸のコラボレーション企画、今回は「太平洋と日本海を桜でつなごう」と奮闘した男・佐藤良二の物語だ。

僕が昭和63年にNHKに入局し、名古屋放送局に配属されたとき、「このような名作を作れるようなディレクターになれ」と先輩に言われた番組が、北陸東海ブロックで昭和59年に放送された「桜紀行~名金線・もう一つの旅」だ。中村儀朋ディレクターが制作した番組で、その後これを基に小説「さくら道」をお書きになり、平成6年には映画化されている。懐かしい思い出だ。

佐藤良二は昭和4年に岐阜県白鳥町の農家に生まれた。三歳で母を亡くし、父に男手ひとつで育てられたが、いつも「貧乏暮らしを苦にするな。困っている人がいたら助けろ。そして、人を喜ばせるようなことをしろ」と言われた。

昭和22年、国鉄バスに入社し愛知県豊川市の自動車学校で学ぶ。同級生に「お前は男前だから、車掌になるよりも俳優が向いている」と言われ、その気になった良二は貯金をはたいて鼻を高くする整形手術を受け、映画会社を受験するも、不合格。同級生からは馬鹿にされ、恥ずかしさと悔しさを味わった。

昭和28年、金沢と白鳥町を結ぶ路線バス、金白線の車掌となる。このとき、巨大ダム建設の計画がなされ、荘川村と白川村の301世帯、1346人の家屋がダムの底に沈むこととなった。せめて村があった証を残そうと、村民たちは樹齢400年、40トンの2本の桜の巨木を村を見下ろす高台に移植した。その後、全国に散った村民は桜が咲く季節に故郷を偲ぶ会を開き、昔を懐かしんだ。老婆が桜の木を撫でながら涙を流すと、皆が過去を懐かしみ、悲しさと無念さに暮れた。そのときに良二は「桜はただ美しいのではない。心の奥底を揺さぶるものがある。俺にも人を喜ばすことができるかもしれない」と思った。

昭和41年、良二36歳のとき、白鳥町と荘川桜の間を桜で埋め尽くそう、バスのさくら道を作ろうと思い立つ。苗木を購入するために、沿線の住民に寄付をお願いし、自らの給料も注ぎこみ、オートバイに乗って苗木を植えて回った。停留所、民家の庭先、小学校の校庭、橋のたもと…。毛虫が食って枯れてしまう、雪かきのブルドーザーが踏みつぶしてしまう等困難はあったが、良二は1本1本、植え直した。沿道の住人は変人扱いし、国鉄の職場でも「やめろ」と言う人も少なくなかった。

そんなとき、同僚の佐藤高三が「手伝うよ」と言ってくれた。幼馴染で、バスの運転手だった。二人は同じバスに運転手と車掌として乗務しながら、苗木を植えていった。バスは名古屋と金沢を結び、日本一の長距離バス路線、名金線とまった。良二たちの取組はマスコミに知られるになり、取材に応じる。だが、出費はかさむ一方だった。妻の八千代は民宿を開業して家計を助けたが、苦労は絶えなかった。それでも、良二は「桜を楽しみにしてくれる人がいる」とやめなかった。

取組開始から5年後の昭和46年。良二は入院する。身体中のリンパ節が腫れ、免疫機能が異常をきたす難病だった。化学療法と放射線照射の治療の結果、「再発の恐れあり」と言われながらも退院した。良二は「自分の命は長くない」と感じながらも、成長した桜を見て、その生命力から気力が沸き、「もっともっと植え続けるぞ」と燃えた。苗木は800本に達した。

良二の夢はさらに膨らむ。名古屋と金沢の路線すべてに桜を植え、日本列島を縦断させようと考えたのだ。総延長266キロ、人生を賭けた挑戦だ。中古のライトバンを購入し、「太平洋と日本海を桜でつなごう!」と幕を貼り、走りながら協力を呼び掛けた。そして、昭和48年。金沢兼六園に1500本目の植樹をして、目標を達成する。

だが、良二の夢はそれで終わらない。つなげるだけでは駄目だ、桜のトンネルを作るんだ。そのためには、30万本の桜が必要だ。良二は「まだまだ植え続けるぞ」と執念を燃やす。だが、再入院。退院はしたが、声はかすれ、バスの中では立つのがやっとだった。周囲からは「自分の体を大事にしてくれ」と言われた。

昭和49年、がん併発。病室には「桜はやめる」と書いた紙を貼ったが、頭では「生きた証を残したい」と300~400年続く荘川桜のような桜のトンネルを作りたいという思いが捨てられなかった。荘川桜の実を畑に蒔き、芽が出ると、そこに「荘川一郎」「荘川二郎」「荘川三郎」…と名前を付けた札を差した。

昭和50年。良二は危篤状態になる。パートナーの佐藤高三が「良ちゃん!」と呼びかけると、良二は声にならない声で夢を訴えた。高三は「安心しろ。引き受けたから」。良二は息を引き取った。享年四十七。桜植樹活動12年、2000本に達していた。高三はその後、1000本の桜を植え、5年後に亡くなる。その夢は高三の妻ふさ子、良二の姉てるに引き継がれた。

今も一部の区間で見事な桜並木を観ることができる。それは良二の言っていた「桜のトンネル」だ。人の世に一日も早く幸せが訪れる日を念じつつ。これは生前に良二が言っていた言葉である。

「太平洋と日本海を桜でつなごう!」と願った国鉄バス車掌・佐藤良二の「さくら道」への熱い思いが伝わってきた。