講談協会定席 一龍斎貞心「次郎長と伯山」一龍斎貞花「白子屋政談 お熊引き回し」

上野広小路亭講談協会定席初日に行きました。
「日之出屋カビ合戦」神田おりびあ/「源平盛衰記 俱利伽羅峠の戦い」宝井琴鶴/「青の洞門」田辺凌鶴/中入り/「岩亀楼亀遊」一龍斎春水/「次郎長と伯山」一龍斎貞心
貞心先生の「次郎長と伯山」。「清水次郎長伝」を創作した三代目神田伯山が主人公ではなく、そのきっかけを作った講釈師・松廼家京伝の物語として構成されているのが良い。清水次郎長と懇意にしていた講釈師、松廼家大龍(のちの京伝)は山本五郎が書いた「東海遊侠伝」を読み、これは親分の話ではないですかと次郎長を訪ねる。次郎長の養子だった天田五郎が書いたもので、今は内外新報の記者をしているという。次郎長は大龍に「これを講釈に作り直して、飯の種にしたらいい」と勧める。大龍は喜び、次郎長の子分から見聞きしたことなども加え、点取り(台本のようなもの)を拵えた。
明治26年、次郎長逝去。大龍は東京に出て、端席で自分が拵えた次郎長の読み物を読む。だが、全く受けない。面白くないのだ。周囲の勧めもあって、高座名を松廼家京伝と改めたが、芽が出ない。寄席の下足番をして何とか暮すという日々となった。次郎長に「講釈として仕上げる」とした約束をこれでは果たせない。京伝は「若くて才能のある講釈師に託そう」と考え、神田小伯山に打診した。
十二歳で二代目伯山に入門し、神田松山から小伯山になった。京伝が「東海遊侠伝」と自分の点取りを持って来たのを読み、小伯山は大変嬉しく、名誉に思った。「確かに貰いました。これで面白い講釈ができる」。芝に住んでいた京伝を鳥越に呼び寄せ、創作に耽った。大瀬半五郎や森の石松などは小伯山の架空の創作である。
小伯山は33歳のときに、師匠伯山が隠居して松鯉を名乗り、自分が三代目伯山を襲名した。だが、この襲名披露興行の最中、京伝は女性関係のトラブルから居たたまれなくなり、「陰ながら活躍を祈ります」と置手紙を残して姿を消してしまった。伯山は明治41年、現在の「清水次郎長伝」の原型である「名も高き富士の山本」を完成させる。
明治42年。次郎長の十七回忌に出席した伯山は帰り道で熱海に宿泊する。そこで、弟子から「京伝さんが梅屋という宿屋の風呂番をしている」という情報を得る。再会。京伝は「先生のお噂は伺っています。ありがとうございます。これで安心して、あの世で次郎長に会うことができます」。伯山は次郎長伝が出来上がったら京伝に聴いてもらうという約束を思い出し、急遽、梅屋の大広間で披露する手筈を調えてもらう。近郷近在から多くの客が詰め掛け、一晩のつもりが三晩の高座となった。
「お前さんが教えてくれたネタがこんな風になったよ」と伯山が京伝に感謝すると、京伝は「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言って、伯山は「その台詞、早速使わせてもらうよ」。そして、三日間の木戸銭をそのまま「小遣いにしてくれ」と京伝に渡し、梅屋主人に「これからは客として養生させてやってくれ」と頼む。
半年後。伯山が両国橋の寄席に出演していたとき、熱海の梅屋から使いが来た。「昨晩、京伝さんが亡くなりました。先生に申し訳ないと言っていました」。伯山が高座に上がると、ビッシリと満員の客席。その一番後ろに浴衣姿の京伝の姿が伯山には見えた。京伝が生前言っていた「先生、あっしが死んだら、幽霊になってでも、客を引っ張りこみますよ」という台詞を思い出した。
伯山の次郎長か、次郎長の伯山か。八丁荒らしの名をほしいままにして、「次郎長伯山」と呼ばれた三代目神田伯山と松廼家京伝の素敵な絆の物語だった。
上野広小路亭講談協会定席二日目に行きました。
「三方ヶ原軍記 信玄鉄砲」神田おりびあ/「野狐三次 木っ端売り」神田菫花/「金毘羅利生記 田宮源八郎」一龍斎貞橘/中入り/「稲むらの火 濱口梧陵伝」神田香織/「白子屋政談 お熊引き回し」一龍斎貞花
貞花先生の「お熊引き回し」、白子屋政談の最終回である。財政が傾いた白子屋を立て直すための女将のお常の計略が最終的に大岡越前守に見破られ、失敗に終わるまでの読み物だ。
娘のお熊に又四郎という男を持参金の500両目当てで婿に入れたが、持参金さえ手に入れれば後は用無しの又四郎をお熊が愛想尽かしした上に、毒薬を入れた味噌汁を飲ませて毒殺しようとしたが、未遂に終わった。そこでお常は又四郎に大山詣りを勧め、出掛けた又四郎を忠七、吉郎、長次郎の奉公人三人掛かりで襲い、散々に叩きのめして海へ放り込む。そして、「又四郎は店の金300両を盗み逐電」したということにした。
だが、天網恢恢疎にして漏らさず。味噌汁に毒薬を盛ったところを目撃し、又四郎に飲むのをやめるように言った下男久助の証言を基に、お熊と又四郎の仲人となった加賀屋長兵衛と車力の善八が南町奉行に訴え出て、大岡越前守の裁きを受けることになる。ところが、お常は病床の夫・庄三郎の中気を治すための秘薬を医者の玉井源兵衛から貰い、これを味噌汁に入れたのだと言い逃れる。逆に訴えた久助は奉公人として嘘を言っていると入牢させられ、善八も手錠の刑となる。
善八は評判の占い師の竜山先生に見てもらおうと芝界隈を歩いていたら、気の触れた男が棒を振り回して暴れている。よく見ると、その男は又四郎だった。早速、又四郎の元の奉公先である桑名屋惣右衛門のところへ、又四郎を連れて行って、惣右衛門に事情を説明する。又四郎の兄が戸塚で桔梗屋という旅籠をしているから、駕籠に乗せて連れて行こうということになった。だが、その途中の品川で与力に尋問されてしまう。事情を話すと、駕籠の中を見せろと言われ、検問すると、果たして手配中の又四郎その人であった。
又四郎は南町奉行に連行される。気の触れた又四郎を名医の安倍東晋が診察すると、「養生すれば、全快する」との見立て。二十日後には全快した。そして、取り調べをおこなうと、又四郎は大山詣りの途中、羽田で忠七、吉郎、長次郎に三人に殴る蹴ると痛みつけられたと証言。その上、忠七とお熊が密通していたことも告白した。又四郎は桑名屋預かりとなり、再吟味が決まった。
再吟味でも又四郎殺しを否定するお常、そしてお熊。そこで、大岡越前守はお白州に又四郎を呼び出す。驚く白子屋一同。吉郎、長次郎は「殺そうとした」ことを認める。忠七も浅草安倍川町に住む両親に別れを告げ、奉行所に現れ、犯行を自白する。お常も、お熊も、もう弁解の余地がない。
こうして、忠七は鈴ヶ森で、お熊は伝馬町で処刑される。晒し首になる前に、お熊は忠七に言う。「お前さん、先に逝っておくれ。私も後から逝くからね」。お熊、二十二歳であった。お常は八丈島に遠島となる。四十五歳から30年経った後に江戸へ戻され、三河屋善兵衛が引き取り、八十一歳まで生きたという。
庄三郎は老衰、野垂れ死にであった。息子の庄之助は改心し、出家。諸国を回向して廻った。お熊の墓は芝増上寺にあるという。


