【アナザーストーリーズ】太宰治 心中~死に焦がれた作家の生き方~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 太宰治 心中~死に焦がれた作家の生き方~」を観ました。
太宰治、本名津島修治。1909年生まれ、1948年6月13日に愛人の山崎富栄と玉川上水に入水心中し、亡くなった。太宰はそれまでに4回の自殺や心中を図っている。太宰がそれほどまでに「死」を渇望したのはなぜか。それを紐解く優れたドキュメンタリーである。
山崎富栄は東京婦人美髪美容学校を設立した山崎晴弘の娘として生まれ、幼い頃から英才教育を受けてきた。見合い結婚で夫となった修一は結婚の12日後に召集され、戦地へ。美容学校も空襲で焼かれ、大きな喪失感や孤独感を味わっているときに太宰と出会った。彼女の日記にこうある。
“貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。真綿でそっと包んでおいたものを鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして、涙ぐんでしまった。太宰は「死ぬ気で恋愛してみないか」と言った。それが富栄の心に刺さった。
太宰はそれまでに2度の心中未遂を経験している。21歳のとき、銀座のカフェの女給、田部シメ子と。28歳のとき、内縁の妻の小山初代と。だが、その後に津島美知子と結婚、3人の子をもうける。生活が安定し、作風が明るくなり、1940年には代表作「走れメロス」を発表している。
太宰は弘前の大地主の子として生まれるが、六男。両親の愛情に恵まれず、叔母のキエや女中のキエに育てられた。しかし、二人はやがて太宰の許をなんの前触れもなく去ってしまう。太宰は女性に対し、「自分を捨てるんじゃないか」という不安がつきまとい、「甘えたい」という母性愛を望んだ。
富栄は美容学校再建のために貯めた金を太宰に注ぎこんでしまう。出会いから4カ月後、太宰は心中を切り出す。それは富栄の夫だった修一が戦死公報に載ったタイミングだった。両親に詫びながら、富栄は遺書を遺す。
親より先に死ぬということは親不孝だとは知っています。でもあの人は死ぬんですもの。しかも自殺しようとする悲しさを察してあげて下さい。
富栄は美容師を辞め、太宰の世話に専念する。1948年の「人間失格」にこうある。
そこで考え出したのは道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
心中の一か月前。朝日新聞連載の「グッド・バイ」では、主人公が愛人と手を切るためにニセモノを仕立てて嘘をつく。愛人は美容室の先生で、二十歳前後、戦争未亡人とある。まさに富栄そのものだった。
死を前に富栄と別れようとしていたのか。富栄の日記には、太宰が「愛している女があるんだ」と言って、女子大のお嬢様、父は医者、ブルジョア階級だ告白されたとある。それは実在したのか?嘘だったのか?富栄は「離れますものか。私にもプライドがあります」と言って別れない。六月十三日、遺書をお書きになり、御一緒につれていっていただく。その夜、二人は心中した。
太宰には師匠がいた。井伏鱒二だ。井伏は心中が発覚すると、現場に直行した。翌日の新聞に太宰の遺書が発見されたと記事が載った。そこにはこう書かれている。あなたを嫌いになったから死ぬのではないのです。小説を書くのが嫌になったから死ぬのです。みんな、卑しい欲張りばかりです。だが、遺書には続きがあった。この後、「井伏さんは悪人です」。
太宰は文学を志し、弘前から井伏に手紙を送っている。会ってくれなければ、自殺してやるという文面で、私は威かしだけのことだろうと考えたが、万一を警戒してすぐに返事を出した。
昭和初期、文学志望の青年が多くいた。太宰は裕福な家庭に育った人間は文学を書けないと苦悩した。東京帝大入学を機に井伏に弟子入り。井伏にとっては「困った弟子」「面倒な弟子」だった。新聞社の入社試験に失敗すると失踪し、自殺を図ったり、薬物中毒となり入院を勧めたり。井伏は女学校教師だった美知子を紹介し、太宰と結婚させる。太宰は結婚誓約書を書き、「結婚は努力であると思う。再び破局したら私を狂人として捨ててください」と誓った。散々に苦悶の多い青春を送っても、まるで子供のように他愛のないところがあったと井伏は振り返っている。
だが、太宰の生活は戦後になって乱れる。新しい文学を目指した「斜陽」は上流階級の没落と再生を描いた。
戦闘開始。いつまでも悲しみに沈んでもおられなかった。私には是非とも戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。
自信作のつもりだったが、志賀直哉が「貴族の言葉遣い」を批判した。すると、太宰は志賀に噛みついた。随筆「加是非我聞」にこう書いた。
貴族の娘が山出しの女中のような言葉を使うとあったけれども、おまえの「うさぎ」には「お父さまはうさぎなどお殺せなさいますの?」とかいう言葉があったはずで、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」、いい言葉だねえ。恥しくないか。
これを読んだ井伏は「やめろ」と注意した。だが、太宰は怯まない。井伏鱒二、やめろといふ、足をひっぱるといふ、ひとのうしろでどさくさまぎれにポイントをかせいでいる。卑怯。なぜ、やめろといふのか。旧体制側に立つ井伏を「やきもち焼き」「悪人」と断じた。そこには結婚の際に更生を誓ったことに対し、実際には愛人がいて、顔向けできない、そういう罪悪感が「悪人」呼ばわりさせたのではないかと番組では分析していた。
太宰は第一回芥川賞に落選、第二回には候補に挙がらず、第三回では選考対象外となってしまった。番組ではそのことについての太宰の心情を第三の視点から描いている。
友人だった檀一雄は太宰の死の原因について、「私は疑いもなく、彼の文芸の抽象的な完遂の為である。太宰の完遂しなければならない文芸が、太宰の身を喰うたのである」と書いている。二人の出会いは東京帝大に先輩後輩として、太宰が23歳、壇が21歳のときである。太宰はその頃から酒と女、薬物中毒に溺れていた。檀の「小説太宰治」にこうある。
芥川賞の候補に這入ったのは、こんな時期だった。佐藤春夫先生の懇篤なお褒めの手紙を太宰が震えながら私に見せてくれたことを覚えている。太宰が、芥川賞という、文壇のお祭り興行に、必死にすがりつこうとしたのは、可憐なほどだった。
1935年に芥川賞が創設。太宰の「逆行」が候補となる。太宰は芥川龍之介に憧れて小説家になった。その意味でも欲しい賞だった。だが、石川達三が受賞。川端康成は「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活の乱れを批判した。太宰は激怒し、「大悪党だと思った。刺す」と反撃している。
第二回芥川賞にすがった。2015年に発見された太宰の佐藤春夫宛書簡は4メートルにも及ぶ。第二回芥川賞は私に下さいますよう、伏して懇願申し上げます。私はきっと佳い作家になります。佐藤さん、私を助けて下さい。私を忘れないで下さい。私を見捨てないで下さい。だが、第二回では候補にも挙がらなかった。
壇一雄は太宰の「晩年」を託された。おそらく太宰は自殺を選ぶだろう、だから何としても「晩年」を今の中に上梓しておきたいと思った。「遺書として書かれた」と思った壇は「晩年」を出版社に持ち込み、校正まで付き合った。だが、第三回の芥川賞では選考対象外となった。
内縁の妻初代の不倫が発覚すると、太宰はショックで1年半小説が書けなかった。そして、谷川温泉で初代と心中を図るが、失敗。離別した。そして、再びペンを執る。小説「姥捨」だ。
死にたかった。わがままなやつだ。異様な噴怒で、かっとなった。あらあらしく手首をつかんで、脈をしらべた。かすかに脈搏が感じられた。生きている。生きている。
太宰はショックから立ち直った。壇が振り返っている。太宰という天才を取り戻したんですね。精神がキリッと緊まって、勇猛心がおこった。いままでは抽象的な苦悶だったのが、具体的な苦悶になった。
太宰は身を刻むように小説を書いた。心中は「文学のための死」だったと番組は結んでいる。太宰治は作家生活14年で150作品を残した文豪であることは間違いない。

