円楽党の若い衆 三遊亭兼好「崇徳院」、そして古典廻し&古典廻さず 立川吉笑「くじ悲喜」

「円楽党の若い衆~兼好・萬橘二人会」に行きました。三遊亭兼好師匠が「崇徳院」、三遊亭萬橘師匠が「四段目」。ゲストは漫才のロケット団先生、開口一番は三遊亭げんきさんで「孝行糖」だった。
兼好師匠の「崇徳院」。上野清水様の茶店で若旦那とお嬢様がお互いに一目惚れをしてしまう。お嬢様が落とした茶袱紗を若旦那が拾ってあげたときに、お嬢様は崇徳院様の歌の上の句を書いた短冊を若旦那に渡す。下の句は「割れても末に逢わんとぞ思ふ」、つまりまたお会いしたいですねという熱烈なラブコールだ。だが、お互いの住まいも名前も教え合わないために両者は共に恋煩いをしてしまう。
ここで上の句を書いた短冊について、二通りの演じ方がある。一つは偶然、お嬢様の足元にその短冊がヒラヒラと風に運ばれてきて、それをお嬢様から若旦那に渡すという型。もう一つはお嬢様が持っていた短冊に上の句を書いて、若旦那に渡すという型。きょうの兼好師匠は前者の偶然型だった。ちなみに古今亭志ん朝師匠は後者の積極型である。僕が聴いてきた噺家さんの高座では、概ね半々に分かれる。
だが、どうだろう。好みの問題だとは思うが、僕は後者の積極型の方に軍配を上げる。まず、偶然とはいえ、崇徳院様の歌を書いた短冊が、しかも上の句だけを書いた短冊がお嬢様のところにヒラヒラ舞ってくるだろうか、というリアリティの問題がある。所詮、落語だから何でもありだと言う人も多かろうが、あまりにもご都合主義というか、不自然ではなかろうか。
それ以上に、僕が思うのは、お嬢様が積極的にラブコールするという意味合いを強めるなら、自らが筆を取って短冊に書くという方が素敵ではないか。いや、昔は現代のように積極的な女性はいなくて、控えめな女性が好まれたという考え方もあるかもしれないが、源氏物語に描かれた平安時代にも恋愛に積極的な女性はいた。
以上の理由で僕は後者の積極型を支持したい。勿論、この噺の主眼は若旦那の恋が成就するように、熊五郎が崇徳院様の歌を手掛かりに、三軒長屋を譲り受けたいという欲もあったろうが、必死に「蜜柑を踏んづけたような」綺麗なお嬢様探しに四苦八苦する滑稽にあるのはわかっている。
「古典廻し&古典廻さず」に行きました。立川吉笑真打昇進祝いの会である。
「八五郎坊主」桂九ノ一/「コンビニ参観」春風亭一花/「棒鱈」立川寸志/中入り/口上/「くじ悲喜」立川吉笑
吉笑師匠の「くじ悲喜」の擬人化は傑作だ。箱に残り籤3人(人間ではないが)のうち、2人が「どうせ、ティッシュだ」と卑屈なことを言いながら、少しの期待もあり、とても気になる様子で、自分たちで「めくってしまおう」とする心理状態がとてもよく判る。少しずつめくっていこうとなって、2人とも「テ」、片方の籤の次が「ィ」だったのを見て、もう片方はもう思い切って一遍にめくってみると…「ティファニー」!思わず「ヨッシャ!」とガッツポーズを取り、もう片方に対して、「俺たちは同じ籤、仲間じゃないか」と言いながら、明らかに優越感にひたっている様子が可笑しい。
めくることに参加していなかったもう1人の籤は実は1998年の「フランスW杯」という当たり籤だったが、なぜか籤の箱の隅に引っ掛かっていて、誰にも当てられずに何年も経ってしまったという悲しい運命の持ち主だったという…。まさに「悲喜こもごも」のくじ引きならぬ「くじ悲喜」。傑作である。
一花さんの「コンビニ参観」は弁財亭和泉師匠作品だが、東大文Ⅰの合格祝いにコンビニでバイトしたいと願ったヤマダショウイチ君の母親役を一花さんが見事な演技力で自分の噺にしている。「帝王学を学ぶにはまず平民の気持ちを知らなくては」とか、いちご大福50個を差し入れして「ロケ現場の松方弘樹」みたいとか、バイトの先輩のカワグチさんに「うちのショウちゃんを狙っているでしょ!この女狐が!」とか、和泉師匠のギャグが自然に一花ギャグに昇華していることが素晴らしいと思った。

