なでしこくらぶ 神田あおい「平賀源内 知恵袋」、そして夢空間講談会 田辺一邑「良弁杉の由来」神田松鯉「天野屋利兵衛」

「女流講談会なでしこくらぶ」に行きました。

「水戸黄門漫遊記 二本松小町」神田こなぎ/「三方目出鯛」一龍斎貞寿/「豊竹呂昇」田辺一邑/中入り/「平賀源内 知恵袋」神田あおい/「中江藤樹」神田織音

あおい先生の「平賀源内 知恵袋」は初めて聴いたが、面白かった。元高松藩士だった源内は名古屋に移り住んだが、江戸見物がしたいと出掛けると、遊興に耽って一文無しになってしまった。泊まる宿にも困っていたら、荷車を曳く清吉という男が「辻番の決まりで二人で曳いていないと罰せられる」と手伝いを頼まれた。その礼として、一晩だけでもいいから泊めてくれないかと頼む。清吉は俥屋を営む叔父・権太郎のところに厄介になっていて、「清吉が三年前に家出をしたときに名古屋で源内に世話になった」ことにして、一芝居打つ。権太郎はそれであれば何日でも泊まってくれと言うので、一か月以上宿泊させてもらった。

そのとき、茂兵衛が権太郎のところに相談にやってきた。松平出羽守が一寸八分で三十六歌仙の金蒔絵が施された瓢箪を持っているが、外は立派だが内側にも美濃紙を貼って、砂子を撒いてほしい、そういうことが出来る職人がいないか、と探しているという。これを聞いた源内は「拙者がやろう」と申し出る。報酬は百両を要求した。

出羽守は源内に任せることにすると、果たして出来上がった瓢箪が手元に届いた。瓢箪の口から覗くと確かに注文通りであるが、奥の方までは暗くてよく見えない。瓢箪を割った形跡はない。さて、源内に騙されたか。実際に割って確かめると奥まで綺麗に美濃紙が貼られ、砂子が撒かれていた。見事である。

源内を呼び出し、どのような手法で作業したのかを問う。すると、源内は「知恵の代金」として50両ほしいと言う。出羽守は了承する。まず、水で薄めた糊を流し込み、時間が経ったら水を出す。次に水で溶いた美濃紙を流し込み、同様に時間が経ったら水を出す。なるほど。

では、砂子は?と問うと、さらに50両を要求するので、出羽守は仕方なく了承する。細い管を瓢箪に通し、砂子を吹き入れたのだという。なるほど。これによって、源内は都合200両を儲けた。そこから清吉に世話になった御礼を払ったという。源内はその後も知恵者として活躍するわけだが、若き日のエピソードとして大変興味深かった。

夢空間講談会に行きました。

「越の海勇蔵」神田若之丞/「笹野名槍伝 海賊退治」神田伯山/「良弁杉の由来」田辺一邑/中入り/「長門守木村重成の最期」田辺いちか/「赤穂義士外伝 天野屋利兵衛」神田松鯉

一邑先生の「良弁杉の由来」。生き別れた母子の五十年ぶりの再会に思いを馳せる。二歳の幼子が桑畑の農作業中に鷲に攫われ行方不明になってしまったとき、母親はパニックに陥ったろう。以来、気がふれて狂いながら日本中を経巡って探し回った。偶然乗り合わせた船の上での噂話で、「聖武天皇に大仏建立を勧めた東大寺初代別当の良弁僧正は二歳のときに鷲に攫われたことがある。親に会いたいだろう」と耳にする。

飛鳥の岡寺の義淵僧正が春日明神参詣の際に杉の木に赤子を咥えた鷲を見つけ、経文を唱えたら赤子を無事に保護することが出来た。その男の子は白妙の守り袋を身に付けていて、中には木で彫った観音像が入っていた。義淵は良弁と名付け、学問を身に付けさせると、驚くくらいに吸収し、義淵亡き後に後継者となり、やがて聖武天皇の覚えも良く、東大寺初代別当になった。そのとき、50歳。

母親は噂話を手掛かりに「息子に一目会いたい」と東大寺を訪ね、物乞いのような身なりをしていても必死に思いを伝える。一方、良弁の方も寺にある杉の木に「真の親に会えますように」と毎日願掛けをしていた。その両者の願いが見事に合致し、守り袋の観音像が証拠となって、晴れて親子の対面を果たすことができた。五十年離れていても、親子の情愛は薄まるどころか、かえって深まっていたのだろう。素敵な読み物である。

いちかさんの「木村重成の最期」。付け文によって心が通じ合った重成と青柳(のちの絹)の馴れ初めも良いが、二人の固く結ばれた絆が美しい。大坂夏の陣に出陣する重成の身支度をしていた絹は重成同様に死を覚悟していた。兜に蘭奢待を仕込んで炊いて夫を戦に送る心遣い、そして自分もその香りの中で喉を突いて自害するという行動に走らせたのだろう。重成は果てた絹の死骸に対し、「三途の川で待っていておくれ。すぐに追いかける」。

重成も味方が次々と討たれる中、戦場で切腹をする。敵方で初陣だった二十歳の安藤長三郎が介錯をして、その首を徳川方本陣に献上するというのもドラマチックだ。兜をかぶったままの重成の首。兜を取ると蘭奢待の香りがする。「女々しい」と嘲笑う者が多い中、家康は「二度と戻らぬ」という重成の覚悟に感激し、泣きじゃくる。敵ながらあっぱれ。戦国時代の美談である。

松鯉先生の「天野屋利兵衛」。利兵衛は町人でありながら、播州赤穂藩浅野家に対する忠義心が並大抵ではないことがすごい。内匠頭切腹を知ると、妻そでに三下り半を渡し、五歳の息子七之助は引き取って、「城を枕に討死する覚悟」で駆け付けるというのだから。

その忠義を見こんで、大石内蔵助も利兵衛に口外無用という約束で「討ち入りのための忍び道具13種の製作」を依頼する。東町奉行・松野河内守が利兵衛宅の押し入れから足の先が鋭利なキリのようになっている蝋燭立てを押収し、召し捕ってお白州で取調べがおこなわれた。

だが、利兵衛は決して口を割らない。「義理のある方に頼まれたので、申し上げることはできない。時節到来の折りには必ず申し上げる。それまで御猶予をください」。白状しない利兵衛は連日の痛め吟味に痩せ衰える。河内守が息子の七之助を白州に呼び寄せる。七之助が「友達から泥棒の子と言われる」と泣くも、利兵衛は「父さんは泥棒じゃない。大きくなれば判る」。河内守は「我が子が可愛いだろう。抱いてやれ」と許し、白状しない利兵衛に対し、「倅の体に訊くがどうじゃ?」と飴と鞭で促す。だが、利兵衛は「悪い親を持ったと思ってくれ。痛かろうが打たれておくれ。天野屋利兵衛は男でござる」。

そこに妻そでが駆け込み訴えにやって来る。河内守に対し、「播州赤穂浅野様と親しくして出入りしていた。私を離縁して里に帰し、城を枕に討死と駆け付けた」と正直に言う。すると、河内守は「黙れ、黙れ、黙れ。この女は気がふれておる。町人が討死するわけがない。狂女の言うこと、取り上げることはできない」。利兵衛は独房に入れられ、以来取り調べはおこなわれることはなかった。

元禄15年12月14日、吉良邸討ち入り。翌年の正月9日に東町奉行の役人が仇討本懐の噂をして「さぞ、嬉しかったろう」と言っているのを耳にした利兵衛。「ありがたい。お調べください。実は大石内蔵助様に頼まれました…」。だが、それ以前に松野河内守が気づかなかったはずがない。だが、それを表沙汰にしてしまうと、「忠君の妨げ」になると考えた。知っていて知らぬふりをしていた河内守は名奉行である。赤穂義士仇討本懐の陰には隠れた功労者がいたという…。人間国宝、松鯉先生の素晴らしい高座であった。