【熱談プレイバック】不屈のスキージャンパー・原田雅彦

NHK総合で「熱談プレイバック 不屈のスキージャンパー・原田雅彦」を観ました。貴重なアーカイブ映像と神田春陽先生の講談のコラボレーション、今回は長野オリンピックのジャンプ団体で「船木ぃ~」と祈っていた人間的な部分が忘れられない原田雅彦選手の物語だ。

昭和43年に北海道で生まれた原田は学校の運動会の玉入れ競争で見せた抜群の跳躍力を見込まれ、9歳でスキージャンプを始める。斜面を滑り降り、踏切台で思い切りジャンプする。原田はその快感に酔い、寝ても醒めてもジャンプのことを考え、ジャンプの虜になった。中学1年で全国優勝、中学2年で連覇、中学3年では世界ジュニア選手権の代表に選ばれるまでになる。天才ジャンパーは「いつか日本のエースになる」と夢を膨らませた。

昭和63年のカルガリーオリンピックでは代表に選ばれず、日本は団体戦最下位に終わった。そして「若手を抜擢していこう」という方針転換を図る。そのときに注目されたのは、葛西紀明16歳。原田より4歳年下だった。

アルベールビルオリンピックを翌年に控えた平成3年、原田は「V字ジャンプ」に挑戦する決断をする。当時の主流はスキー板を平行にして飛ぶスタイルだったが、スウェーデンのヤン・ボークレブがこのV字飛行を取り入れ、ワールドカップ総合優勝を果たしたのだった。当時、「V字はフォームを崩す」という批判的な声もあったが、原田は果敢に挑戦。そこには「日本のトップになるんだ」という思いがあった。原田は面白いように記録を伸ばした。

そして平成4年のアルベールビル。原田は男子団体で日本最高記録を出し、4位入賞を果たす。また、個人でもノーマルヒル、ラージヒルともに日本人選手の中では1位の記録を残した。

原田は有頂天になっていた。恋人の恵子からは「天狗は禁物だ」と注意されるほどだった。原田のジャンプには弱点があった。天性の跳躍力ゆえ、力いっぱい飛び出して、踏み込み動作も大きいため、「3本に1本はタイミングがずれる」危険性を孕んでいた。だが、平成5年の世界選手権では個人ノーマルヒルで優勝を果たす。

そして迎えた平成6年のリレハンメルオリンピック。団体戦1本目。①西方仁也118.0②岡部孝信124.5③葛西信明128.0④原田雅彦122.0。日本がトップに立ち、金メダルが目の前に見えた。2本目のジャンプも3人目までは順調に進み、原田が105メートルを跳べば金メダルというところまできた。ところが…まさかの失敗ジャンプ。97.5メートル。踏み込みのタイミングを外してしまったことが原因だった。日本は2位に終わった。

その後、原田は海外遠征メンバーからも外される。台頭してきたのは、船木和喜。ワールドカップ初出場で初優勝を飾る。低く鋭く前傾姿勢で飛び出すジャンプは、原田がトンビなら、船木はタカと喩えられた。

原田は自暴自棄となり、毎晩飲み歩く生活。それを叱咤したのが結婚した恵子だった。「もっとしっかりやりなさい」。船木のやり方ができない、俺のやり方じゃあ勝てないという原田に、恵子は「らしくやればいいんじゃないの」と言った。これで目覚めた原田は自分の理想の踏み切りを分析し、訓練し、追求した。そして、海外遠征メンバーに復帰する。

平成10年、長野オリンピック。個人ラージヒル、1本目は6位だった原田の2本目。計測不能な大ジャンプを見せる。「立て!立て!立ってくれ!」。136メートル。銅メダルを獲得した。

そして、団体戦。1本目。①岡部孝信121.5②斉藤浩哉130.0。日本がトップに立った。そして、原田。なんと失敗ジャンプ…79.5メートル。リレハンメルの悪夢がよぎった。1本目を終わって、日本は4位。そして2本目。岡部、斉藤が繋ぎ、原田。ここで不屈のジャンパーの本領を発揮する。何と、137メートル!日本は1位に躍り出た。そして最終ジャンパー、船木が確実に125.0を記録し、金メダル獲得。逆転で日本初の団体戦制覇を果たした。

ガッカリするような大きな失敗もするけれど、ここぞというときには驚異的な活躍を見せてくれた天才スキージャンパー、原田雅彦。そのドラマチックな生き様が講談で蘇った。