【アナザーストーリーズ】ジョン・レノン そして「イマジン」は名曲になった

NHK―BSで「アナザーストーリーズ ジョン・レノン そして『イマジン』は名曲になった」を観ました。
1980年12月8日午後10時50分、ジョン・レノンはニューヨークのダコタハウスで射殺され、亡くなった。イギリスBBCのニューヨーク支局記者トム・ブルックは一報を聞いて現場に駆け付けたとき、もう既に警察官数名しかおらず、メディア関係者は搬送先の病院に行っていた。その後、現場にはニュースで知ったファンが大勢押し寄せ、1969年発表の「平和を我等に」を歌っていたという。
「イマジン」はビートルズが解散した翌年に発表された楽曲だ。国なんてない、宗教もない、世界はひとつ。ベトナム戦争反対を訴えていたジョンは皆が思っていたことを平和へのメッセージとして曲にした。だが、当初は批判もあったという。億万長者のロックスターが「何も所有しない。世界は一つ」なんておかしい、難しい問題に随分簡単な答えを出して夢想家が過ぎる…。
ジョン射殺の6日後。ジョンがよく散歩していたセントラルパークの野外音楽堂で追悼集会が開かれ、10万人が集まった。スピーチなどは一切なく、ジョンの楽曲がスピーカーから流れるだけ。10分間の黙祷の後、「イマジン」が流れ、皆の歌声が響いた。平和を示すピースサインをする者、共に歌う者、涙を流す者…皆、「イマジン」が描いた世界が到来することを心から望んだ。
想像してみて 国家なんてないんだと そんなに難しくないんだろう?殺す理由も死ぬ理由もない 宗教もない 想像してみて みんながただ平和に暮らしていると
ニューヨークに雪が降った。ジョンはリバプールでは降らない雪が好きだった。雪が降ると子供のように喜んだ。だから、死んだジョンがまだそこにいるような気がしたという。トム・ブルックは言う。「イマジン」はあの日から違う意味を持つようになった。平和な世界になってほしいとジョンが歌うのを聴くだけでなく、私たち自身が平和な世界を想像するようになった。ジョンの「イマジン」が私たちの「イマジン」になった。
チェコスロバキアは第二次世界大戦後、チェコとスロバキアを合併して共産党独裁が1989年のビロード革命まで続いた国だ。社会主義が礼賛され、「我々はソ連と共に永久に幸せ」だと教育された。だが、そんな抑圧に反抗する「自由の象徴」がビートルズだった。1980年ジョンが亡くなった直後、プラハの町の裏通りの壁に誰かの手によってジョンの墓を見立てた絵が描かれると、若者たちはこぞってやって来てジョンの似顔絵や歌詞を書き、その壁は「レノンウォール」と呼ばれるようになった。
1968年、改革派のドプチェク第一書記が主導した民主化の動きは「プラハの春」と呼ばれた。言論や芸術への規制が排除され、西側から自由の風が入り、ビートルズも流れて来た。だが、その年の8月。ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻によって占領され、プラハの春は一瞬の夢と化した。厳しい言論、思想統制がおこなわれた。当然、ジョンの楽曲も規制の対象となった。
だが、若者たちは西ドイツやルクセンブルクから流れて来るラジオ放送に密かに耳を傾け、その不自由さがかえって人気を高めた。平和、愛、自由…社会に関する断片的な情報に触れた彼らは英語がわからなくても「イマジン」の歌詞からまさに「想像」を膨らませ、ジョンの人物像を思い描き、伝説を作った。
1987年12月8日。ジョンの命日に開いたレノンウォールでの追悼集会で、無許可の路上ライブをおこなうと、警察が介入し、多くの若者たちが逮捕された。その後も取り締まりが何度も続いたが、国家権力への不満は膨れ上がる一方だった。政治的なことには無関心だった若者が過剰な取り締まりを受けることで、反骨精神に火がつき、何千人もの大規模デモとなった。
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。解放を求める機運はチェコにも伝播した。17日にはプラハ市内で数十万人もの大規模な反体制デモが起こる。それは田舎町にも飛び火し、学生たちは授業をボイコットし、「イマジン」を歌った。自由化を求める波が全土に広がったのだ。そして、12月24日に共産党政権は崩壊した。そこに武力衝突はなく、滑らかな織物に喩えて、「ビロード革命」と呼ばれたのだ。
ジョンはニューヨークをこよなく愛する男だった。1971年に移住以降、音楽活動はアメリカを拠点とした。そんなジョンが作った「イマジン」は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロにおいても多くの市民の心を癒す楽曲となった。
イスラム原理主義組織アルカイダによるテロはニューヨーク市民の心を傷つけ、ニューヨークの町を破壊し、喪失した。愛する町の変わり果てた姿を目にして、精神状態が不安定になった。ラジオ局が「世界はひとつ」と歌う「イマジン」の放送を自粛する動きもあったという。怒りの感情、報復措置を求める気持ち、ナショナリズムの心を逆撫ですると判断したのだろう。
だが、テロの一週間後、ニューヨークの町で「イマジン」を市民が輪になって歌う姿があった。その歌声は市民の怒り、悲しみを超えて心に深く沁み入った。静かだけれども、力強い歌詞の力が彼の心を捉えたのだろう。
10日後。四大テレビネットワークが製作した9.11被害者追悼チャリティー番組で、ニール・ヤングが「イマジン」をカバーして歌った。あえて、この楽曲を選んだのだ。一箇所だけ歌詞が変更された。「きみにはできるだろうか」の部分を「私にはできるだろうか」と変えたのだ。そこには平和実現への覚悟があった。ニールが自分自身、そして聴き手に問いかけたのだ。
想像してみて みんなが世界を分かち合っていることを きみは僕を夢想家だと言うかもしれないね でも僕ひとりだけじゃないよ いつかきみも仲間になってほしい 世界はひとつになれるはずさ
ニューヨークでジョン・レノンゆかりの場所のツアーガイドをしているジャレド・ゴールドスタインはセントラルパークのストロベリーフィールズを案内するとき、イマジンと刻まれた記念碑にむかってツアー客に問いかけるという。「なぜここにはジョン・レノンの銅像がないのか」。答えはこうだ。「彼一人が特別ではなく、私たちと同じ人間だから」。
番組のラストコメントが良かった。「イマジン」が発表されて50年あまり。現代史の様々な事件や激動のたびに響きわたり、次第に輝きを増していった。この「イマジン」にこめられた平和が夢でなくなる日はいつこの世界に到来するのか。
2022年、ロシアのウクライナ侵攻。ジョンの息子、ジュリアン・レノンはウクライナ支援のために、改めてメッセージを届けたいと「イマジン」を歌った。「平和」という言葉の重みについて思いを馳せた。


