【アナザーストーリーズ】ザ・ビートルズ来日 熱狂の103時間

NHK-BSで「アナザーストーリーズ ザ・ビートルズ来日 熱狂の103時間」を観ました。
ビートルズが来日したのは1966年6月29日。翌30日から7月2日までの3日間で5公演が日本武道館で行われた。その当時の世の中の様子がわかって、とても興味深かった。
浅井愼平は前年に日本広告写真家協会賞を受賞した、28歳の新進気鋭のカメラマンだった。その浅井がビートルズ来日の写真集の撮影を任され、密着した。とは言っても、警備の体制は厳重でシャッターチャンスは少ない。それでも良い写真を撮ろうと狙ったという。
来日の特別機は台風4号の影響で予定より11時間遅れの午前3時44分に羽田空港に到着。警察官550、報道陣250。検問で追い返されたファンは1045人にのぼったという。入国審査は機内で済ませ、税関審査はなし。滑走路からそのま車で首都高へ直行。首都高は上下線とも通行止めになった。羽田から赤坂のホテルまでは僅か19分で着いた。ホテル周辺も860人の警察官が警備に当たった。彼らが泊まったのは10階の1005号室、20平米のスイートルームだった。
仮眠をとって、翌朝には記者会見が行われた。「富と名声の次にほしいものは?」という質問に「平和」と答えたという。浅井は同じホテルの同じフロアに泊まり込んだが、警戒は厳重でドアに枕を挟んでシャッターチャンスを狙った。そのとき撮れたのが、赤いパンツ姿のジョン・レノンだった。
彼らは外出が禁止される完全封鎖の徹底隔離。だが、3日目にポール・マッカートニーが脱走。「日本のバッキンガム宮殿が見たい」と皇居に向かうも、5分で捕まってしまった。ジョン・レノンも脱走し、新宿の古美術店に入るが大勢のファンに取り囲まれて、1時間で戻された。
浅井は彼らが日本を離れる前日に部屋に入ることが許され、撮影をした。そこには疲れた若者の素顔があったという。「会えば、ただの兄ちゃんが音楽になると突然、神がかる。それを天才と呼ぶのだろう」と振り返る。浅井が撮影した写真集のタイトルは「ビートルズ 東京 100時間のロマン」。浅井の名前が世に広まった。
浅井がビートルズ来日を撮った羽田空港の場所は現在、31番スポットと呼ばれ、2010年にできた国際線ビルの一角となっていた。写真集のラストカットはビートルズが去った後の部屋と飲みかけのコーヒー。浅井は「ビートルズがいない20世紀なんか考えられない。それだけ欠かせない存在だったのです」と語っているのが印象的だ。
ビートルズが来日したきっかけは、1966年3月14日。「彼らが日本に行きたがっている」という電話を永島達司が受けた。当時40歳。“呼び屋”と呼ばれた彼は今でいうところのプロモーター、興行ビジネスの草分けだ。デビューから4年経ったビートルズの来日コンサートを開催する。永島は「無理だろう」と断るつもりで渡英した。ギャラの問題があったからだ。
ところが、マネージャーのブライアン・エプスタインはこう言う。ギャラはどうでもいい。LP1枚の値段の切符にしてくれ。それで採算が取れないなら、ギャラを減らしてくれ。コンサートのチケットはA席2100円。ビートルズのギャラは相場の1/5程度だったという。
さて、どこでコンサートをやるか。前年のニューヨークでは史上初の野球場コンサートを開催し、5万5600人を集めている。永島が目を付けたのは、東京オリンピックで建設された日本武道館だった。だが、ロックコンサートなど前代未聞。反対運動が起き、当時の佐藤栄作首相は「武道館でロックなど考えものだ」と述べている。だが、前年にビートルズがイギリス王室からMBE勲章を授与されていることが評価され、「英国の国家的音楽使節」として、使用許可が出た。
当時、早稲田大学紛争や日韓基本条約反対デモなどが起きていた。混乱せずにコンサートを開催する役割に、警視庁警備課長だった山田英雄が抜擢される。当時34歳。武道館を下見した山田はたもろした女の子にビートルズのコンサートに行くかと訊くと、「足の一本くらい折れてもいいから、ステージに飛びあがってキスしたい」という答えが返ってきたという。山田は「女子の安全を守る」ことを目標に掲げた。
治安警備でもない、デモ警備でもない、「泥まみれの崇高な警備」を目指したと山田は振り返る。人海戦術。警察官、のべ8370人。警備費用、9000万円。公安に依頼し、堀に飛び込んでは困ると警備艇を浮かべ、アクアラング(潜水部隊)も編成された。過剰ともいえる体制に「第二次安保闘争の準備か」と勘繰られたりもしたという。
高さ2メートルの柵を立て、飛び降りを防止。アリーナには客席を作らない。消灯しないといった対策が取られた。観客数8500に対し、警察官1700。ビートルズのメンバーの楽屋からステージの移動は護衛がついた。ジョン・レノンは「軍隊みたいに規律が厳しかった」、ジョージ・ハリソンは「ファンは温かかったけど、他の国より静かだった。妙な雰囲気だった」と振り返った。そして、3日5公演は無事終了した。ワンステージ、11曲、30分だった。
山田は「ビートルズは満足していないだろうし、残念だったと思う。抑えすぎたかなとも思う。責任者としては申し訳なかった」と振り返る。だが、日本公演を終え、フィリピンに行ったビートルズはマニラ空港でファンにもみくちゃにされ、「最悪だった」と述べた。それに比べ、「日本は素敵だった」とも。山田はそれを知って、「良かった」と思った。のちに山田は警察庁長官にまでなり、1986年のチャールズ皇太子・ダイアナ妃来日や東京サミットの警備でも実績をあげたのだった。
ビートルズ来日コンサートを宇崎竜童は観ている。当時、20歳。高校3年生のときに「抱きしめたい」でビートルズに出会い、虜になった。チームで歌を作り、歌うこと。誰の指図も受けずに自分たちでやっていること。その素晴らしさにハートは鷲掴みにされたという。
コンサートチケットは親類が芸能関係者だった関係で手に入った。今でも大切にスクラップ帳に貼ってある。だが、当時は「見せびらかしたかったが、できなかった」。南東スタンド、1階、B列34番。あっという間に終わった。ギャーという歓声が大きくて、歌声は聞こえないに等しかったと振り返る。
あのビートルズを超えてやろうと音楽活動をしてきた。だが、「真似できない」。曲を作ろうと作曲家になった。「1曲も超えていないですね。いつか横に並べるようになりたいという気持ちはありますけど。そのエネルギーはまだある。それを掻き立ててくれるのがビートルズなんです」。
ビートルズは教育に良くないとコンサートに行くことを禁止した学校もあった。イラストレーターの上田三根子は高校3年生のとき、学校をさぼってコンサートに行った。自分が美術の道に進んだのも、アートカレッジ出身のジョン・レノンに憧れたからだという。豆粒みたいにしか見えないビートルズの演奏を夢中で観た。
コンサートで話しかけてきた男の子と9年の交際を経て結婚した。今は離婚してしまったけれど、ビートルズコンサートは自分にとってエポックメーキングな出来事だったと振り返った。雑誌から切り抜いたビートルズの写真を今も作業机の上に大切に置いてある。
2015年4月。ポール・マッカートニーがあの1966年以来、49年ぶりとなる日本武道館コンサートを開いた。ポール、72歳。およそ半世紀前のコンサートに行った人たちが、まるで同窓会で旧友に会うように集っていた。ビートルズには音楽というジャンルを超えて、何とも言えない求心力を感じる。やがてそれは伝説となるのだろう。