玉川太福独演会「天保水滸伝」通し口演
「玉川太福独演会~天保水滸伝通し口演」に行きました。太福先生が「天保水滸伝」全6話を一挙に演じるという好企画である。曲師は玉川鈴さん。
「繫蔵売り出す」。繁蔵が銚子の親分、木村屋五郎蔵の子分にしてくれと訪ねてくる。飲みこみの熊吉は門前払いをしようとするが、飯岡助五郎が五尺八寸五分、三貫の体格を見て、取次ぎをしてやれという。これが笹川繫蔵と飯岡助五郎の最初の出会いである。
須賀山村の村相撲で大関を張っていた繫蔵は、マムシの勘太と諍いになり、投げ飛ばしたら、石地蔵に頭をぶつけて死んでしまった。村にはいられないので、江戸相撲の力士になろうと、深川にある駒ヶ岳の部屋に入門。四股名を村尾繫蔵として、3年で十両三枚目まで昇進、人気も上昇した。ところがこれをよく思わない横綱・稲妻雷五郎の弟子の虹ヶ嶽仙衛門が30両を貸せと因縁をつけ、喧嘩になる。場所の6日目に5連勝していた繫蔵は虹ヶ嶽と対戦、二度と相撲を取れない体にしてしまった。と同時に繫蔵も江戸相撲を離れなくていけなくなった。
そこで繫蔵は渡世人になろうと木村屋五郎蔵の許を訪ねたのだ。子分として認められた繫蔵は独楽鼠のようによく働く。賭場荒らしをとっちめるなど実績をあげ、親分のお気に入りになった。そこに十一屋の貸元である流鏑馬の仁蔵から声がかかり、繫蔵は十一屋の跡目となり、80人の身内の親分になった。一方、五郎蔵親分も亡くなり、跡目は飯岡助五郎が継いだ。助五郎は18歳年下の繫蔵を目の敵にする。これが笹川と飯岡の仲が悪くなる発端だ。
「鹿島の棒祭り」。千葉周作の道場を破門されて繫蔵の許へ身を寄せた平手造酒は酒の上が良くない。鹿島の棒祭りへ行くのは遠慮してほしいと繫蔵が遠回しに頼んだが、平手は鹿島での三日間は禁酒するので行かせてほしいと嘆願する。勢力富五郎や夏目新助らと鹿島へ行った三日目。勢力に「昼飯を食ってきてください。甘酒だったら良いですよ」と言われたが、桜屋という小料理屋で甘酒は女子どもの飲むもの、御神酒を献上なさいと言われて、二合徳利1本のつもりで飲んだが運の尽き。1本で終わるわけがない。5本、6本、7本と進み、これでお終いとしようとしていたところに、浪人風の男三人が入店した際に埃を叩いたのが、平手の盃に入った。
「無礼な奴だ」。ちょうど老婆が牡丹餅を犬の芸を見せて売っていたので、三人の男が座ったところに牡丹餅を投げ、犬に拾わせた。「無礼なことをするな」と怒った男に、「どちらが無礼だ」と言い返す平手。客の中に「あの三人は飯岡助五郎の用心棒、気をつけた方がいい」と言う人がいて、平手の怒りがさらに増した。一升の酒を一息で飲み干すと、三人に立ち向かい、見事三人を曲斬りにしたという…。笹川vs飯岡の構図が加速する。
「笹川の花会」。繫蔵が花会を開くことになり、その案内状が飯岡助五郎の許にも届いた。だが、助五郎は毛頭行く気もない。そう言っても無視は出来ないので、子分の洲崎の政吉を名代として行かせることにする。助五郎が包んだ祝儀はたったの5両。これはまずいと政吉は思い、子分衆から募って20両を加え、25両を持って花会へ向かう。
受付の夏目新助に祝儀を渡し、二階へと上がる。そこには大前田英五郎、仙台丸屋忠吉、一関信夫常吉ら錚々たる親分衆が顔を揃えていた。政吉に対し、上州の国定忠治が訊く。「スケはどうした?」。病気のため名代で自分が来たと政吉が答えると、戸板の上に乗ってでも近所なのだから来るのが義理じゃないか、人情じゃないかと責められる。政吉は肩身の狭い思いだ。
そこへ「飯岡の親分から義理をいただきました」と笹川の若い衆が上がってくる。祝儀の金額を書いたビラを持っている。すでに大前田から100両、仙台丸屋から100両といったビラが貼られている。これでは大恥をかく…政吉はビクビクしていた。すると、ビラには「飯岡助五郎100両、政吉50両、若い衆50両」と書かれたビラが貼られた。国定忠治は政吉に対する態度をガラリと変え、「飯岡の本当の気持ちがわかった。俺の盃を受けてくれ」。
政吉は笹川繫蔵の配慮に恥ずかしい思いと感謝の気持ちが沸き、心の中で手を合わせ、ホロリホロリと男泣きした…。自分が親分と仰ぐ飯岡助五郎の了見の狭さを実感せずにはいられなかっただろう。
「蛇園村斬り込み」。繫蔵の子分だった岩松が10年前に雨笠の寛治を殺した罪で召し捕られた。繫蔵と夏目新助は座敷で岩松が凶状持ちだったこと、だが改心して毎日のように念仏を唱えていたことを懐かしんだ。隣の部屋がいびきで五月蠅い。いびきの主は誰かと女中に尋ねれば、うわばみと渾名される六蔵だという。果たして、昔の子分の六蔵だった。
再会を果たした六蔵は今回、岩松が召し捕られたのは助五郎の企みだと言う。栗原の元吉からのたれこみで、岩松の殺人を訴人したのだ。先日、飯岡とは手打ちをしたはずなのに、陰で裏切るようなことをしているとは許せない。繫蔵は憤った。
これを聞いた平手造酒は喧嘩の支度をして、蛇園村にある助五郎の妾宅を襲うことにする。助五郎が妾のおかめと飲んでいるところに、「助五郎を出せ!」と叫ぶ。二階に上がると、おかめが一人でいて、「助五郎はいない」という。助五郎は隠し部屋に身を潜めていたのだ。平手と繫蔵は子分たちをなぎ倒すが、助五郎は取り逃がしてしまった。平手はおかめを斬り殺し、助五郎が許せないと言って、その場にあった酒を飲み干した。これをきっかけに飯岡一家は喧嘩の仕返しをしようと、天保13年8月23日の大利根河原の決闘となる。
「平手の駆け付け」。飯岡一家が笹川一家に斬り込みにかかる、いわゆる大利根河原の決闘。実はこのことを事前に笹川側に注進した人物がいた。
造り酒屋の息子の留次郎は親が心配するほど堅い人物で、本ばかり読んで遊びを知らない。そこで商売仲間の新年の寄り合いに留次郎を5両を持たせて出席させ、付き合いで潮来の遊郭で女郎買いの遊びを覚えた。以降、大黒屋の比奈鶴花魁といい仲になり、通い詰めの日々が始まる。けしかけた親の方が心配し、出入りを禁じられてしまう。そこで、留次郎と比奈鶴は身投げして心中しようとするが…。これを目撃して、止めたのが繫蔵の子分、清滝の佐吉だった。佐吉は留次郎の親を説得し、二人は晴れて夫婦になった。
そういう恩義があったから、飯岡一家斬り込みの情報を得た比奈は笹川側に一報を入れた。飯岡勢300人に対し、笹川勢は85人しか集められなかったが、それでも事前に知っていたのと、知らなかったのでは大違いだ。飯岡勢は大利根を遡り、待ち受ける笹川勢と相対する。吐血して病床にいた平手造酒のところへ笹川方からの手紙が入ると、平手は諏訪明神境内に駆けつける。平手は病魔に襲われながらも、奮戦して飯岡勢と戦うが、遂に倒れてしまう。
「繫蔵の最期」。飯岡助五郎宅にある渡世人が訪ねる。「スケはいるか?」…「去年8月に預けたものを受け取りに来た」。子分が誰かと訊ねると「俺は笹川繫蔵だ」。親分はいないと答えると、「あばよ!」と言って、せせら笑いながら繫蔵は去って行った。
このことを聞いた三浦屋孫次郎と成田甚蔵は繫蔵の後を追う。そして、繫蔵を闇討ちにして斬り殺した。繫蔵、三十八歳。孫次郎は繁蔵の首を持って、親分の助五郎のところへ行き、「土産物がございます」と差し出す。それが笹川繫蔵の首だと知ると、助五郎は「大手柄だ」と褒めるが、その後の態度が孫次郎には気に食わなかった。生首を煙管で叩き、唾を吐いたのだ。そして、「魚にでも食わせろ」。
孫次郎は「この首は私が預かる」と言って、「親分にお願いがあります」。今限りで親分子分の盃を水にしてください。そうなれば、他人だ。言わせてもらう。その態度が貸元のやることか?徳川家康は武田勝頼を首実検したとき、手厚く弔って、冥福を祈った。この首になぜ念仏を唱えないのか。回向しないのか。
そう言うと、孫次郎は「あばよ!」と去り、笹川村へ。迎えた清滝の佐吉に対し、こう言った。親分さんには申し訳ないことをしました。助五郎には愛想尽かししました。詫びに来ました。これが亡骸です。どうぞ、無念を晴らしてください。孫次郎は頭の被り物を取ると、坊主頭であった。
佐吉は「そのまま帰っておくんなまし…これから、どちらへ行かれるのですか」と問うと、「諸国巡礼の旅に出ます。浮世とはおさらばです」。三浦屋孫次郎の義侠に胸が締め付けられた。