やっぱり、さん喬・権太楼 柳家さん喬「男の花道」

「大手町落語会スペシャル二人会~やっぱり、さん喬・権太楼~」に行きました。柳家さん喬師匠が「男の花道」と「夢の酒」、柳家権太楼師匠が「お見立て」と「鰍沢」だった。開口一番は柳家小きちさんで「弥次郎」だった。

さん喬師匠の「男の花道」は講談の人間国宝、神田松鯉先生から教わったものを落語にしたそうだ。歌舞伎役者の中村歌右衛門と眼科医の半井源太郎の男の友情にグッとくる。

歌右衛門にとって、失明することは役者人生を絶たれること。それを救った半井はいわば命の恩人である。御礼に100両を渡そうとするが、半井はこれを拒む。「歌右衛門という芸をこの世から失いたくない。私は芸の治療をしたのです」。これに対し、歌右衛門は金で済まそうとしたことを詫び、「いつか恩返しをしたい。何か私が役に立つようなことがあれば、いついかなるときも駆けつけます」と約束するのが美しい。

江戸に出た歌右衛門は中村座を連日札止めにするほどの評判の役者になった。一方、半井は蔵前に医院を開業するも、3年間患者がほとんど来ない不遇が続いた。折角、長崎で5年間医学を学んだことが世の中に受け入れられないのは残念なことであった。

土方縫殿助が江戸中の医者を集めて向島上半で宴会を開く。踊りを踊ったり、唄を歌ったりできる幇間医者がご機嫌をとる中、半井は部屋の隅で俯き、ニコリともしない。そんな半井に対し、土方は歌え、踊れと命じるが、半井は「いたって無骨者でございます」と断るが、あまりにしつこいので「迷惑でござる」とハッキリと言う。医者の本分は病人を治すことにあるのであって、殿様のご機嫌取りに踊るなんて許せないことだったに違いない。

「然るべき方に踊ってもらうのが筋かと思う」との発言に、土方は「踊りの名手といえば、坂東三津五郎か中村歌右衛門であろう」と言うと、半井は歌右衛門の名が出たことに思わず「懐かしい」と呟く。これを聞き逃さない土方は「お前は歌右衛門を呼べるのか?今、呼べると言ったな、確かに言った。わしが何度も声を掛けても一度も応じない歌右衛門を呼べるのだな」。

歌右衛門は中村座で一谷嫩軍記を上演している最中だ。だが、土方は無理やりに半井に歌右衛門を招くように手紙を書かせ、中村座に届ける。これを読んだ歌右衛門は半井の一大事を知り、向島上半に向かいたいと思う。座頭を呼び、「義理を通したい」旨を伝えると、「私が許しても、お客様が許さない。親が死んでも舞台を勤めるのが役者ではないか」と言われる。それでも「役者を辞める覚悟だ」と聞き、舞台の上から観客に事情を説明することが許される。すると、「一世一代の我儘」を観客は皆が「行ってやれ!」「待っていてやる!」。

上半で半井が切腹寸前のところで、歌右衛門が駆けつけ、「しばらく、お待ちくださいませ。只今、参上仕りました、中村歌右衛門にござりまする…半井殿になり代わり、一舞い踊らせていただきます」。その優雅な踊りに宴客たちは見惚れた。見事に半井の面目を施し、土方の鼻をあかしたのだ。そして、歌右衛門は舞い終わると、半井を連れて中村座に戻る。観客は誰一人帰っていなかった。そして、眼科医である半井の名は世間に知れ渡ることになったのだ。男と男の友情物語に痺れた。

権太楼師匠はトリで演じた「鰍沢」も素晴らしかったが、「お見立て」が面白かった。30年以上封印していたネタだそうだが、最近になって演り始め、楽しくなって頻繫に掛けているという。「テーマは遊び」と言うだけあって、高座から自分が楽しみながら演じているのが手に取るように伝わってきて良かった。

喜瀬川花魁に嫌われている杢兵衛大尽は信州から来ているという設定にして、「泥の付いた葱を土産に持ってきた」というのがまず可笑しい。喜瀬川が焦がれ死にしたことにして、喜助が杢兵衛大尽に報告するとき、「花魁は『野沢菜漬が食べたい』と言って死んでいきました」と言うのには爆笑。

墓参りしたいと言われ、思わず「山谷です」と答えてしまった喜助に対し、喜瀬川が「馬鹿だね。肥後の熊本とか、カムチャッカとか、ウズベキスタンとかにしておけば良かったのに」。ウズベキスタン…というところが権太楼師匠らしくて面白い。

墓の前で杢兵衛大尽が号泣するが、これが“空襲警報”ですか!と喜助が突っ込むくらいに豪快なのも可笑しい。三番目の墓が「陸軍上等兵 小林盛夫」というのも笑える。先代小さん師匠!兎に角、権太楼師匠オリジナルのクスグリが満載で、爆笑王の面目躍如たる高座だった。