熱談!プレイバック 千代の富士一代記
NHK総合テレビの「熱談!プレイバック 千代の富士一代記」を観ました。講談師の神田阿久鯉先生の講談とNHKに残されたアーカイブス映像を組み合わせた画期的な演出で、内容的にも素晴らしかった。
番組では3つのパートに分けて、千代の富士の足跡を辿っている。
一つ目は「ウルフの覚醒」。昭和45年に15歳で九重部屋に入門した秋元貢少年は部屋の横綱・北の富士の胸を借りてどんどん強くなっていく。その貪欲な稽古場での姿から、「飢えた狼のようだ」と言われ、ウルフという仇名が付いた。小さな身体で大きな力士を投げ飛ばす豪快な相撲。だが、投げ技に頼ることにより、身体への負担は大きかった。昭和48年春場所、当時幕下だった千代の富士は左肩を脱臼。それは癖となって、右肩まで脱臼してしまい、満足な相撲を取れない状態が続いた。
それを救ったのは、九重部屋を継いだ北の富士の言葉。「本当の自分の相撲を見つけてみろ」。以来、筋力トレーニングに励み、肩の関節を筋肉で固めた。そして、強引な投げ技を封印し、前廻しをつかんで前に出る速攻相撲を心掛けた。毎日のように佐渡ヶ嶽部屋に出稽古に通い、苦手としていた琴風の胸を借りた。
その成果が出たのが、昭和56年初場所。初日に関脇・琴風を破ると、巨砲、舛田山、青葉山、輪島、魁輝、蔵王錦、麒麟児、増位山、隆の里、朝汐、若乃花、北天祐、富士櫻と14日目まで白星を並べた。5日目と11日目は横綱を破っての連勝である。
そして迎えた千秋楽は1敗で追う横綱・北の湖との対戦。当時、憎らしいほど強いと言われた最強の力士である。本割では北の湖に吊り出され敗戦。優勝決定戦に持ち込まれた。千代の富士は同じ轍は踏まない。頭をつけて、右上手からの出し投げで横綱を土俵に這わせた。北の湖の下半身の脆さにつけこんだ勝利で、見事に初優勝を飾った。このときのテレビ視聴率が52.2%。いまだにその記録は破られていないという。
場所後に千代の富士は大関に昇進。さらに名古屋場所には横綱へと登りつめた。
二つ目は「お父さんは負けない」。昭和59年九州場所で10回目の優勝を手にした千代の富士は賜杯とともに1歳となる長女の優ちゃんを抱いて記念写真を撮った。長男の剛くん、次女の梢ちゃんとも優勝のたびに同様の記念写真を撮っている。子煩悩なマイホームパパぶりは角界でも有名になった。
九重部屋には8歳年下の保志(のちの北勝海)を可愛がり、稽古場で胸を貸してやり、「東西で横綱を張ろう」と励ました。自身も53連勝を飾るなど、黄金期を迎えていた。平成元年2月に三女の愛ちゃんが誕生すると、春場所で優勝を決め、賜杯とともに愛ちゃんを抱いて記念写真を撮った。
だが、その3か月後、愛ちゃんが急死する。千代の富士は頑張る姿を見せて家族を励ましたいと、“弔い合戦”を心に誓って、名古屋場所を迎えた。千秋楽、同じ12勝3敗で北勝海と並び、優勝決定戦に持ち込まれた。同部屋の決定戦は史上初めてのことだった。そして、千代の富士は先輩としての貫禄を見せて、見事に勝利を収め、28回目の優勝を飾った。
千代の富士は「良い供養になりました」とインタビューに答えている。優しさを強さに変換する。そこに千代の富士の魅力があったのだろう。
三つ目は「さらば!千代の富士」。15歳で九重部屋に入門する前、北海道巡業を観に行った秋元少年は、当時“角界のプリンス”と呼ばれていた貴ノ花に声を掛けられている。秋元少年にとっては憧れの力士、「この人にいつか勝ちたい」と心に誓ったという。
千代の富士が入門して8年目、昭和53年初場所で貴ノ花と初対戦した。結果は寄り切って、千代の富士の勝利。その3年後に貴ノ花は引退した。
平成3年夏場所、千代の富士の初日の相手はその貴ノ花の次男、貴花田。まだ18歳9カ月の貴花田が千代の富士を破り、相撲界に新時代の到来を感じさせた。その2日後に千代の富士は引退を表明。会見で「体力の限界。気力もなくなり、引退するときがきたと思いました」と語った。
そして、こう続けている。「若い強い芽が出てきて、潮目時だと思いました。肩の荷が降りました」。そこには大横綱としての強い責任感がみなぎっている。やるべきことは全てやった、思い残すことは何もないという思い。
通算1045勝。優勝31回。国民栄誉賞。22年間の土俵人生を阿久鯉先生の講談と映像で振り返る演出、素晴らしいと感じた。最後に詠んだ句も良かった。
富士仰ぐ 千代に八千代に 花いばら