春の白鳥の湖 田辺いちか「鉄砲のお熊」、そして喬太郎の落語ウラオモテ

「Wonder Womans Works~春の白鳥の湖」に行きました。

「豆腐屋ジョニー」林家つる子/「シンデレラ伝説」三遊亭律歌/「任侠流れの豚次伝⑤天王寺代官切り」立川小春志/中入り/「鉄砲のお熊」田辺いちか/「落語の仮面⑦短命からの脱出」弁財亭和泉

つる子さん。宝塚テイストが面白い。豆腐一家とチーズファミリーの抗争の中の、木綿豆腐のジョニーとクリームチーズのマーガレットはさながら「ロミオとジュリエット」。ミュージカル風に歌い出す演出、さすが。豆腐一家が松明を持ってチーズファミリーに殴り込みをかけた結果、三平ストアのおすすめメニューがヘルシーグラタンになる大団円。両天秤をかけていた鍋界の公家、マロニーだけが痛い目に遭うという…。つる子さん、明るくてノリノリの高座だった。

小春志師匠、ネタ卸し。任侠の世界が男前な芸風にピッタリはまる。大阪市長を懐柔し、公務員としてのさばっているドーベルマンの権蔵とチワワのお菊以下、野良犬ども。その縄張りでひと悶着起こしてしまった豚次は大阪天王寺動物園のツルベ親分に匿われるが…。犠牲となってしまったツルベ親分の仇を討つべく、ドーベルマンの権蔵を“くちばし”で切りつけて亡き者にした豚次の漢気を巧みに表現していた。

いちかさん、ネタ卸し。月影村で幼少期を過ごした、おみつ後に鉄砲のお熊、時次郎後に中村雪之丞、長吉後にマムシの権蔵の三人の演じ分け素晴らしい。山賊に成り下がった権蔵が、歌舞伎役者となった夢之丞を人質にとって月影村を牛耳ろうとするところ、女相撲の大関になっていたお熊が「相撲で勝負だ!」と権蔵に挑み、見事に勝利を収めるが…。

夢之丞が「女房になってくれ。役者をやめても構わない」と言ったときのお熊の叱責が良い。「馬鹿野郎!役者になりたいと必死に稽古をしていた頃を忘れたのか!私は横綱になる。半端な男にはなびかない」。これで夢之丞も目が覚め、「舞台一筋に精進します…そのかわり、おみつの土俵入りを見せておくれ」。お熊は相撲、夢之丞は芝居、共に出世の道を歩もうと誓う…感動的だった。

「文藝春秋講座 喬太郎の落語ウラオモテ」に行きました。

10分で学ぶ落語の歴史 長井好弘/柳家喬太郎ができるまで 柳家喬太郎×長井好弘/中入り/「らくだ」柳家喬太郎

喬太郎師匠と長井先生の対談が非常に興味深い内容だった。「ここだけにとどめて!」という部分は省いて、差し障りのない部分のみ書きます。

喬太郎師匠が生まれて最初に覚えた落語家さんの名前は雷門助六師匠(八代目)。学習雑誌に雷門ケン坊さんという落語家がよく登場していて、「僕の師匠は雷門助六だよ」と言っていたから。喬太郎師匠は中学時代に助六師匠の口演した「化け猫」(上方落語の「仔猫」)を芝居にして上演した経験があるという。春風亭昇太師匠によれば「どこでも受ける10割打者」。「替り目」の中で亭主が酒の燗を普通はうどん屋につけさせるが、助六師匠は支那そば屋にして演じていたそうで、そばを断られると「シュウマイはいかがですか」「そんな鼻紙を丸めたようなもの食えるか」「ワンタンはいかがですか」「そんなハバカリの中を覗いているようなもの食えるか」「汚ねえな」。また、「七段目」も独特で上方流と言って、芝居台詞のところを喬太郎師匠自身が真似てみせてくれたのは凄かった。

高校時代は色々あって、友人に誘われた映画研究会に。林家三平師匠が亡くなったときは、「昭和の芸能の大スターが亡くなった」喪失感で号泣したそうだ。高校3年生のときに公開された森田芳光監督の「の・ようなもの」を観て感激し、渋谷パンテオンに居続けして2回観たそう。「自分の中では1954年の『ゴジラ』と同率1位です」。等身大のリアルな落語の世界が描かれているから。本牧亭が出てくる。伊藤克信さんが「青菜」で受けないというシーンは本牧亭だそうだ。

日本大学商学部時代は落研に。「落研落研していないのが良かった」。先輩はボートハウスのトレーナーを着ていたし、彼女もいたし、シティーボーイだったそう。でも、やっぱり当時は落研=カッコ悪い象徴、「ダサイ」、「モテない」だった。「すみれ荘201号」のタネはそんな友人たちとの会話にあるという。「あなた、やっぱりオチケンね!」の名フレーズはそこから生まれたのだった。

落研に所属していた関係で、テレビに映るチャンスが幾つかあった。芸能界に入りたいという気持ちはさらさらなかったが、覗き見できるのは嬉しかったという。先輩がフジテレビのADをやっていて、「笑っている場合ですよ」のネクラ大会に出場し、優勝したこともあるとか。「らくごin六本木」では、小朝師匠の「猫の皿」や円丈師匠の「自殺だより」を生で観られたのも嬉しかったと。また、フジテレビから「小原君に欽ドンの前説をやってほしい」と言われて行ったら、コントのオーディションを受けさせられ、黒田アーサーさんと金原亭世之介さんと三人で半年間、「良い下宿人、悪い下宿人、普通の下宿人」にレギュラーとして出演した経緯も。その欽ドンメンバーで「夜のヒットスタジオ」に出て、志穂美悦子さんが「もしも明日が」を唄う後ろで踊った経験もしたそう。

質疑応答コーナーで、「落語の変革期だったなあと思うのはいつですか?」という質問に、喬太郎師匠は「ちょっと答えになっていないかも」と断った上で、「2001年10月1日、古今亭志ん朝師匠が亡くなった日」を挙げた。理由は「来るべき時代が来なかった」という意味で、本来次に落語協会会長や人間国宝になるのは志ん朝師匠だと皆が思っていて、その時代が来ないことになって、落語家が全員うなだれてしまったと。

亡くなった日は新宿末廣亭で真打昇進披露の初日だったが、その日の打ち上げは取りやめになった。喬太郎師匠は池袋演芸場の出番だったが、主任の歌武蔵師匠と扇好師匠と池袋演芸場のシンドウさんの4人で終演後に居酒屋へ行った。歌武蔵師匠はビールを5杯頼み、1杯は「陰膳だ」と。皆が思い描いていた落語界の地図が消えてしまった悲しみ。時間がそこで一旦、止まってしまったと。

僕は思う。だけれども、その喪失感を弾き飛ばすように次へ続く落語家さんたちが精一杯頑張ったからこそ、今日の落語界がある。喬太郎師匠はその頑張った落語家の中の一人です。ありがとうございます。