桂二葉本

桂二葉本(京阪神エルマガジン社)を読みました。

僕が初めて桂二葉という女性の噺家の存在を知ったのは、令和2年度NHK新人落語大賞の決勝の放送を観たときだ。このときは、笑福亭羽光さんが優勝したのだけれど、審査員の柳家権太楼師匠が二葉さんに対し、「ネタは幾つ持っているのか?」「もっとネタを増やしなさい」というようなことをおっしゃっていて、二葉さんもこの本のインタビューの中で、「すごい腹が立った」と語っている。

でも、二葉さん自身も「情けなぁい落語でした」と言っていて、自分が何を喋っているのかわからへんぐらいにアガってしまっていたという。だから、権太楼師匠の酷評よりも、「自分のしゃべりがもぅ情けなかったから、それが一番腹立ちました」。そして、「何のために落語やっとんねん!て。そこでまた火がつきました」。だからこそ、今日の桂二葉があるのだ。

翌年のNHK新人落語大賞決勝でのリベンジは見事だった。5人の審査員全員が10点満点をつけての堂々たる優勝。そのときの二葉さんの「ジジイども、見たか!」はとてもインパクトのあるコメントだったが、これは正確ではないそうだ。直後の囲み取材で控えめな口調で「まぁ、ジジイども見たかっていう気持ちです」と、ウケ狙いで言ったのだという。それが独り歩きした。でも、二葉さんも「あれを言うたのは本当に良かったなぁと思います」。あれを言ったから、ニューヨークタイムズの取材もあったのだと。

権太楼師匠にも感謝している。本番前にメイク室で権太楼師匠が「天狗さしって、天狗裁きじゃないの?」と言わはって、「違うんです」というやりとりがあった。それがあったから、落語本編に「天狗を捌きまんねん、天狗裁きとちゃいまっせ。天狗を“捌く”。この一文字でだいぶ意味変わりまんのんで」。こらえぇわ!と思って入れたそうだ。

二葉さんの「自然なことが大事や」という落語観に感心した。入門前に、女性の噺家は全部観て、ちゃうなって思ったと。今はそんなことはないけど、これはちゃうぞ、と。「男物の着物はなんか無理して見えるとか、自分の言葉で喋るべきやというのはずっと思ってましたね」。自分の中で、なんか漠然と理屈があるというのが、二葉落語の素敵なところだと思う。

だから、着物は最初から女もんにしましたと。「その方が私の体には合うやろうと思ったから」「私の場合は(男もんは)きっと違和感がある」。違和感が最大の敵やから、落語って。不自然になったらあかんと思て、女もんにした。これの判断は的確だと思った。

この考え方は二葉さんの落語にも反映される。「どんな登場人物にも性別はあるけれども、私は甚兵衛さんでも『おっさんです!』っていう(年齢や性別を表す)気ぃでやっていない。“その人の気持ち”でしゃべってる。そういう本質が大事やと思てんねんけど、見失ってへんか?と」。昔から伝わっている“落語のこの部分のしゃべり方はこうである”という決まりに、一旦疑問符を投げかける、二葉さんのやり方は素晴らしいと思う。

二葉さんのしっかりとした落語観を語っているのを読んで、僕は益々これからの彼女の高座に目が離せなくなった。それは江戸落語とか、上方落語とかの区別なく受け入れられるエンターテインメントとして。以下、彼女の根幹を成すインタビュー部分を抜粋して、締め括りたい。

落語の中の世界って、人が楽しくしゃべってたり、何でもないようなことをしてたり、私たちの日常に近いものじゃないですか?せやのに今はどこか隔たりがあるというか、決めつけてしゃべってる気がするんですね、私。“米朝テキスト”も大切やけど、それがすべてじゃないっていうか。もっと自分の言葉で、自分の気持ちでしゃべれるようになりたいなと思っています。

ブラボー!!

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