盛夏吉例 圓朝祭
「盛夏吉例 圓朝祭」に行きました。志う歌師匠が去年に続いて「大圓朝一代記」を披露。その後の三席は「死神」「芝浜」「錦の舞衣」と圓朝作品が続く、まさにオール圓朝プログラムで、大変に良かった。
新版「大圓朝一代記」~圓生と圓朝~三遊亭志う歌/「死神」桂宮治/「芝浜」柳家三三/中入り/「錦の舞衣」(下)柳家喬太郎
志う歌師匠の圓朝一代記、聴き応えがあった。7歳で二代目圓生に入門し、17歳で真打昇進。だが、師匠にそっくりで、物真似に過ぎず、地味だ、華がないという評価だった。それが開眼したのは、父の初代圓太郎の言葉のお陰だ。「客は水を飲みに来る。噺家が器だ。器は形や大きさが様々だが、客は溢れた水を飲みに来る。お前の器はでかい。水が溢れていない。誰もやったことのないことをやって、器を溢れさせろ」。
怪談噺に取り組んだ。背景に書き割りを配し、鳴り物を入れ、華やかな高座に仕立て、人気が出た。600人が入る池之端の吹抜亭でトリを取る興行で、師匠圓生に助演を頼んだ。ところが、圓朝が演ろうとしているネタを先に圓生が演ってしまうという嫌がらせする。圓朝はやむを得ずにその続きを拵える。それが10日間続いた。逆にそのことが評判を取ったというから面白い。
また、吉原で全盛を極めた長尾太夫が、ひょんなことから圓朝の落語に興味を持ち、高座幕まで拵えた。それならば、この太夫を毎日寄席に通わせてみようと、続きが聴きたくなるような連続物を創作し、10日間通わせたというエピソードも面白い。そのときに出来た噺が「真景累ヶ淵」だそうだ。
だが、圓朝はある日、自分の顔が“欲のある顔”に見えて、虫唾が走ったという。以来、気鬱の病にかかってしまった。客に媚びを売るのが嫌になり、休席を続け、高座着も燃やしてしまう。34歳のときだ。道具入りや鳴り物入りをやめて、素噺で勝負してみた。だが、客は喜ばなかった。そして、上方へ行く。すると、上方のお客に受けた。客は皆、高座に聴き入る。ワンテンポ置いて、拍手が起こった。媚びを消そうとしていたのは間違いで、素直に演ればいいのだ。ある種の悟りの道が開けたのだろう。
やがて江戸へ戻ると、圓朝の芸は大きくなっていた。噺の輪郭が無くなり、客は噺の中に吸い込まれる。復活した圓朝は、そこから4年間トリを取り続けた。
圓朝には20数名の弟子がいた。だが、ステテコの圓遊に代表されるように、珍芸で客を喜ばす者が多かった。これを憂いた圓朝は文化的ブレーンになってくれていた井上馨らに相談し、寄席を買い取って、三遊派として芸を磨く場を作ろうと画策したが、弟子の造反によって、その夢は潰えてしまった。そして、圓朝自身は寄席に出ない状態が8年間続いた。
圓朝が還暦を迎えたとき、弟子の願いで寄席に再び出演し始めたが、噺が回ってしまうなど、まともな高座を勤めることが出来ないことがしばしばだった。それは脳障害に因るものだった。そして、62歳で他界する。波瀾万丈の生涯を聴かせてくれた、志う歌師匠に感謝したい。
喬太郎師匠の「錦の舞衣」。獄中の鞠信のことを思い続けた、女房の須賀の意識の高さに感嘆する。と同時に、その須賀の気持ちを利用し、踏みにじる与力の金谷東太郎を強く憎む。
操を破って、操を立てる。金谷が先祖代々伝わる正宗だと偽り、村松町モノのグニャグニャの安物の刀を“武士の魂”だと言って須賀に預け、男女の仲を結ぶことに怒りを覚える。鞠信が獄中死して落胆しているところに、追い打ちをかけるように金谷の虚偽を知ったときの須賀の悔しさはいかばかりか。
贔屓筋の前で一世一代の巴御前の舞いを踊った上で、金谷を呼び出し、復讐を果たした須賀のキリリとした姿に惚れる。「鞠信は命をかけて、自分の芸と宮脇様への義理を立てた」。亭主の敵!と金谷を匕首で刺した須賀の覚悟の見事さよ。
金谷の生首を鞠信の墓前に供えた須賀。「芸人が仇討をするのは野暮かもしれません。でも、操を破ったことを許してください。そして、私が舞う姿をまた絵に描いてください」。そう言って、匕首で自分の喉を突いて自害を果たした須賀の姿に、鞠信と同じ名人としての矜持を見た。