談春浅草の会 千秋楽「百年目」
「談春浅草の会~真打昇進予行演習」千秋楽に行きました。今から7年前というから、小春志師匠が入門して10年目のときだ。打ち上げの帰りのタクシーの中で、談春師匠がこはるさん(当時)にこう訊いたという。「真打になるか?」。これに対し、こはるさんは「え!?」。その反応に、師匠は「じゃあいいや」と話を切った。いわく、二ツ目であるならばいついかなるときも真打になることを考えているはずだ、であれば「ありがとうございます!」と即答できる、だがそうはならなかった、と。
今回真打昇進が決まって、改めて「あのとき(7年前)になぜ即答できなかったのか」、こはるさんに訊いたそうだ。答えは「これは罠に違いないと思った」。真打になるということは、すぐにパーティーや披露興行、その他披露目の準備という物理的なことに対応しなければならない。さらに、何人もの立川流の先輩たちを追い越して真打になるという覚悟みたいなものができていなくてはならない。そういうことを含めて、「試されている」と思ったのだという。それを聞いて談春師匠は「ああ、俺は無言のうちに色々な負荷を弟子に対してかけているのか」と感じたそうだ。きょう、千秋楽の三本締めの前に、談春師匠が一言、「これは俺にとっても予行演習でした」とポツリと言ったのが印象に残った。
御挨拶 立川談春・立川小春志/「お見立て」立川小春志/「桑名船」立川談春/中入り/「百年目」立川談春
素晴らしい「百年目」であった。旦那が番頭に自分の肩を揉ませながら、昨日はなぜ「長々お久しぶり」なんて言ったんだと問い、「これが百年目だと思ったからだ」と番頭が答えると、「ああ、これでお終いだと思ったのか。店を追い出されると思ったのか。とんでもない。お前さんが店を出ていくと、この店は成り立たない。大変に困る。頼りにしているんだ」と言って、旦那が感謝の言葉を番頭に述べている場面がとても素敵だった。
芸者7人、幇間2人を引き連れての遊びに興じていたところを旦那に目撃されてしまった番頭は、一晩中眠れなかった。清廉潔白、堅いのが自慢と思われて、それで信用を築いてきたのに、これで台無しだ、ああ土手になんか上がるんじゃなかった、と罪悪感に駆られ、怯えていた。だが、店の金を横領して遊んでいるわけではない。自分のお金で、自分の裁量で遊んでいる。そこをちゃんと旦那は判ってくれていた。
お客様のお付き合いで遊んでいるのか、自分の金、つまり手銭で遊んでいるのか、それくらいは判る。だから、いつもは毎日提出される帳面も番頭の裁量に任せて、目を通すことはなかったが、さすがに昨晩は帳面に目を通した。一点の穴もなかった。やはり旦那が信用していた番頭だけのことはある。
その上で、お付き合いで遊ぶ場合でも、相手よりも多くお金を使いなさいと言う。相手が50両なら、こちらは100両。相手が100両なら、こちらは200両という風に。お金では負けないでくださいよと。これだけのことを言われたら、部下である人間はどれだけ仕事がしやすいことか。仕事にも張り合いが出る。
旦那の名前の由来のところも、実に気持ちの良い上司だ。私という栴檀は番頭という南縁草に露を降ろしているつもりだ、お陰で商売は繁盛している。また、番頭という栴檀も手代や小僧といった店の南縁草にたっぷりと露を降ろしてくれている、だから奉公人たちは生き生きと働ける。現代でいうところの中間管理職にとって、こんなに有難い言葉はない。
旦那が番頭に肩を揉ませたのには理由があった。番頭さんが小僧の頃、算術も苦手、お遣いも忘れ物が多く、あまり出来の良い子ではなかった。だが、肩を揉ませると上手かった。私の顔色を見て、どこを揉むと気持ちが良いのかを察し、的確に肩を揉んでいた。勘がいいとでもいうのだろうか。この子はきっと将来、いい番頭になると信じていたという。
そして、本当はもっと早くに分家させなくてはいけなかったのに、こちらが甘えてしまって、ずっと番頭で頑張ってきてもらったことを謝罪すると同時に感謝の意を伝えた。すまなかったね、来年の桜の頃には、立派な商家の旦那として独立させてあげるから、と優しい口調でいう旦那に、番頭は号泣するばかりだ。
人を遣う、人に遣われる。仕事は常にその二つで成り立っている。その人間関係のバランスを上手に取ることが、世知辛い現代においては難しくなっている。遣う人は、遣われる身になってモノを考え、遣われる人は遣う身になってコミュニケーションしたいものだ。素晴らしい「百年目」を聴いて、そんなことを思った。