プロフェッショナル 仕事の流儀 歌人・俵万智「平凡な日常は、油断ならない」
NHK総合テレビで「プロフェッショナル 仕事の流儀 歌人・俵万智」を観ました。俵万智さんが還暦を迎えたという。これまで余りマスコミに登場することのなかった彼女の創作の現場に密着した取材班に感謝しつつ、このドキュメンタリーを観させて頂いた。
彼女が「サラダ記念日」で一躍脚光を浴びたのは24歳のとき。36年前のことだ。ほぼ同世代の僕も当時この本を買って、その感受性の豊かさに心がときめいたのを覚えている。累計282万部のベストセラー。1300年の歴史と伝統のある短歌の世界に革命をもたらした。ありふれた言葉を使いながら、31文字に多彩な物語を想起させる彼女の作品はとても魅力的で、SNSの現代においても、短くも豊かな表現が注目されているという。
俵さんの短歌が革命的だったのは、それまで古語主流の文語体だった短歌の伝統に歴史的な転換をもたらしたことだ。普段使いの平易な言葉を紡ぎ、誰もが伝えることのできる文学へと昇華させた。
この味がいいねと君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と 答える人のいるあたたかさ
思い出の一つのようで そのままにしておく麦わら帽子のへこみ
俵さんは19歳のとき、大学の講義で短歌に出会った。失恋の経験を歌にしたら、歌人である教師が「新しいね」と褒めてくれたのがきっかけだ。31文字の制約に途方もない自由を感じたと、俵さんは言う。
自分の居場所を見つけた。自分のやりたいようにやろう。自分の表現として作ればいい。そこに揺らぎはなかった。
この番組の副題は「平凡な日常は、油断ならない」。日常の中に潜むきらめきを見つけ、ときめく気持ちを忘れずに表現する。詩の大きな仕事は言葉になっていない感情、思い、風景、出来事に印をつける、いわば言葉を捕まえる作業だと俵さんは言う。
日常は同じことの繰り返しのようで、平凡でつまらないと思われがちだが、実は油断がならない。悲しいだけの歌は詠まない。日常を否定せず、肯定して、そこにときめきを見つける。たとえ9割が悲しみでも、残り1割で前へ進む気持ちを歌にする。
さよならに向かって朝がくることの 涙の味でオムレツを焼く
俵さんは今も恋愛している。10年以上続く、年下の男性と付き合っている。いわく、恋することは心が柔らかくなり、敏感になること。ほかの日常の歌もたくさんできる。
思いきり愛されたくて駆けてゆく 六月、サンダル、あじさいの花
潮風に君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて貝殻になる
俵さんは34歳のとき、第3歌集「チョコレート革命」を出した。その頃は、歌を創ることが嬉しくて、楽しくて、仕方がなかったという。魔法の杖が手になじみ、悪さをしたくなるのだという。お皿に凝ったり、器に凝ったり、盛りつけに凝ったり、ソースを工夫したり。短歌との付き合い方が変わり始めていた。大胆な性描写や複雑な恋愛を歌にして、話題になった。
水蜜桃の汁吸うごとく愛されて 前世も我は女と思う
焼き肉とグラタンが好きという 少女よ私はあなたのお父さんが好き
その頃の俵さんには、標語や広告の仕事が殺到し、テーマありきの短歌を器用に作っては投げ返していたと振り返る。次の歌集を作ろうとしても、何も書けない自分がいた。迷走期の6年間だったという。そこそこ上手に使える言葉をそこそこ使って、言葉が言葉を紡いでいたにすぎなかった。
そんな俵さんが変わったのは、40歳でシングルマザーになったときからだ。仕事をしながら子育てに追われる。でも、そこに日々の成長を感じる。二度とない時間を記憶にとどめたいと思うようになった。それが原点に戻してくれた。初めて短歌と出会ったときの自分に戻れたという。
生きるとは手をのばすこと 幼子の指がプーさんの鼻をつまめり
眠り泣き飲み吐く吾子と マンションの五階に漂流するごとき日々
器じゃない、ソースじゃない、盛りつけでもないんだ。言葉で言葉を紡ぐと、心が置き去りになるんだと気づいた。言葉と心は一体ということを忘れずに言葉を使う。言葉には心が張り付いているんだと。
俵さんが還暦を前にして、老いや病気、親の介護と向き合って、新しい境地に達しているという。それは老いや病を否定的に捉えるのではなく、意味のある肯定的なものとして歌を詠むことにつながっている。
水栽培しているアボカドを見て、なかなか芽が出ない、根が生えてこない、その様子を歌にしたのがとても印象的だった。
言葉から言葉つむがず テーブルのアボカドの種 芽吹くのを待つ
それが一大事であれる日常ってさ、平和だよね。それに立ち止まらせてくれるのが短歌。逆に短歌を作っているから、そういう自分であり続けられる。
自分の短歌観を「アボカドの種」に重ねた。平凡に普通に生きる中で、歌はいくらでも詠めると。
人生は油断ならない 還暦の木箱に小さな恋のブローチ
俵さんは「プロフェッショナルとは?」の問いに31文字で答えた。
むっちゃ夢中 とことん得意 どこまでも努力できれば プロフェッショナル
素晴らしい。「平凡な日常は、油断ならない」。とても素敵な言葉を私たちに投げかけてくれたように思った。ありがとうございました。