不朽の名作「あしたのジョー」時代と生きたヒーローは今も生き続けている(2)
NHK―BSプレミアムの録画で「アナザーストーリー あしたのジョー・時代と生きたヒーロー」を観ました。
きのうのつづき
連載で、ジョーと力石の闘いが始まろうとしていた頃、東京では学生運動のデモが各地で繰り広げられていた。その若者たちの心を揺さぶったのが、「あしたのジョー」だった。
1968年、東京大学では医学部のインターン制度などに対して学生たちが反発。これをきっかけに、全学共闘会議、東大全共闘が結成された。その波は大学の垣根を越えて、全国の学生たちが連帯していった。早稲田大学で学生運動に身を投じた福島泰樹は東大闘争にも駆け付けた。
福島が振り返る。
はじめて鉄棒、パイプを渡されて、現在闘うことは今、これを持つことだと思って、決死の思いを日々募らせながら、迷いながら、抜けようか、いや闘おう。葛藤ですね。1つのアンビバレンスというか。
福島はそこでジョーと出会うことになる。
東大全共闘の山本義隆はですね、アジ演説の中で「あしたのジョーだ!」と言うわけですね。
東大全共闘代表・山本義隆。彼もまた、「あしたのジョー」を愛読していた。東大全共闘が大学の壁に書いた言葉がある。連帯を求めて、孤立を恐れず。孤立を恐れず闘う彼らには強い問題意識があった。
産学協同。つまり、企業の予備軍として学生が扱われつつあった。それを粉砕して、学問の独立を唱えていかねばならない。だからこそ、山本義隆が「あしたのジョーだ!」と言うわけだな。孤立を余儀なくしても闘い抜いていこう。矢吹丈が闘ったのは、決して体制だとか、そんなことは彼の頭にはなかったけど、しかし、結果としては何かを覆していく闘いだったのです。
同じ頃、別の立場から「あしたのジョー」を見ていた男がいた。日本大学の学生だった山崎照朝。山崎が入学した1968年、日大もまた全共闘運動の真っ只中にあった。山崎は大学を出てサラリーマンになりたいと考えていたが、日大全共闘の学生たちに横槍を入れられた。
山崎が語る。
2年間ちょっと社会へ出て、それから大学に入ったから、俺は勉強するために入ったんだよ、なんで勉強するのを邪魔するんだよ、学校をブロックするんじゃねえよ、と言ったら睨まれちゃって。
授業がいつ再開するのか見えない中、山崎は大学でキックボクシング同好会を立ち上げた。大学側は山崎たちに対し、全共闘から大学を守るための警備を要請。山崎は全共闘などと大学の内外で対決することとなった。
スクラム組んで出てくるんだよ。機動隊が出る前は俺たちが行って、前に出て、相手(全共闘)が出てくると、俺たちは機動隊の後ろに回って、機動隊が(全共闘)とやるんだ。
体制側にいた山崎もまた、「あしたのジョー」には特別な思いがあったという。
「あした」っていう表現が当時の学生たちはやっぱり好き。あしたはどうなるんだ、そのぐらい、もう世の中はかつかつ。右も左もない。右も左も「少年マガジン」見てるし、彼らも彼らなりにあしたを夢みている。俺たちも俺たちでこうやってあしたを夢みている。
若者たちがそれぞれの立場で闘っていた1968年の秋。「あしたのジョー」の連載は、少年院でジョーと力石がボクシングの試合をする回を迎える。容赦のない力石の攻撃にさらされるが、ジョーは倒れても倒れても、立ち上がり、勝敗は決しなかった。
この連載の3か月後の1969年1月。東大安田講堂に全共闘が立てこもる事件が巻き起こる。二日間にわたる安田講堂の攻防は多くの逮捕者を出し、終わった。
同じ年の暮れ、「あしたのジョー」の連載は、少年院を出たジョーと力石がプロのリングで対決する場面を迎える。このとき、連載開始から2年。人気が増すにつれ、原作者の梶原一騎は作り手の思惑を離れて独り歩きするのを感じたという。
息子の高森城が語る。
梶原の中でもキャラクターがもう勝手に発言して動いていってという風になっていた。
壮絶な打ち合いの末、ジョーは得意のクロスカウンターで最後の勝負に出る。しかし、ジョーは敗れた。
この頃、福島泰樹は学生運動から身を引き、僧侶の修行をはじめていた。二人の闘いには、こみあげるものがあったという。
人々は皆、リングを持っている。自分のリングを。その中で闘っているわけだ。あした、あしただよ。やがては皆、死んでいくんだ。闘っているリングが皆、自分の心の中にある。それが力石徹と矢吹丈をいつまでも呼び起こしていくのではないですかね。
生身でぶつかり合うことで、育まれたジョーと力石の友情。ジョーは闘いの後、こう言っている。
血へどを吐きながら、あれほどの男ととことん打ち合うことができたなんて、俺は幸せだと、いま心底思っているんだ。
つづく