不朽の名作「あしたのジョー」時代と生きたヒーローは今も生き続けている(1)

NHK―BSプレミアムの録画で「アナザーストーリー あしたのジョー・時代と生きたヒーロー」を観ました。

この男の闘いに胸を熱くした人は多いだろう。「あしたのジョー」。アニメの視聴率は最高29%を記録した。今から50年以上前に週刊少年マガジンで連載がスタートした、ボクシング漫画。コミックスの発行は累計2000万部を超えた。今も夜な夜なファンが集う店があるほど、その熱は未だ冷めやらない。

主人公は孤高のボクサー、矢吹丈。敢然とひとり強者に立ち向かっていく姿は、連載当時の学生運動に打ち込んでいた若者たちの心を掴んだ。そして、宿命のライバル、力石徹の死。目標を見失い、一時は彷徨うが、そこから再び立ち上がり、世界タイトルに挑むジョー。最強王者とすべてをかけて闘い、真っ白に燃え尽きた。時代が生んだヒーロー、あしたのジョー。一体、何が人々を動かしたのかに迫る凄い番組だった。(以下、敬称略)

番組では第1の視点を「時代が生んだ男 矢吹丈」とした。

圧倒的な強者の力石相手に必死に食い下がっていくジョー。その勇姿は当時の若者に多くの影響を与えた。なぜジョーは漫画のキャラクターを飛び越え、時代のシンボルになっていったのか。

東京吉祥寺にあるライブハウス。僧侶で歌人の福島泰樹は短歌を絶叫するライブをおこなっている。福島の胸の内には、今も「あしたのジョー」が生きている。早稲田大学の学生だった1960年代、学費の値上げを発端とする早大闘争に身を投じ、その後東京大学の闘争にも加わった福島。闘う若者たちは、矢吹丈にわが身を重ねていたという。

福島が語る。

人々が熱い連帯をして、スクラムを組んで闘うことができた。それが1960年代だった。殴り合いながら、愛を確かめる、それが力石と矢吹の闘い。敗北を自明として学生が闘っている。勝つなんて誰も思っていない状況が「あしたのジョー」を生んだんだと思う。

そもそも矢吹丈とは何者だったのか。漫画家、ちばてつやのスタジオ。「あしたのジョー」は1967年、ここで誕生した。現在は体調不良で静養中のちばだが、この部屋を今も見守っているのはジョーだ。すでに多くのヒット作で人気漫画家となっていたちばが29歳のときに世に送り出したのが「あしたのジョー」だった。

もう一人、生みの親がいる。原作者の高森朝雄こと梶原一騎だ。梶原の息子、高森城。ジョーの名を与えられたこの男が直筆の原稿を保管していた。

この一話分しか残っていないんですよね。14枚。

僅かに残された原作原稿。当時、「巨人の星」の大ヒットで漫画原作者として不動の地位を築いていた梶原。その次回作として構想したのが、拳ひとつで生き抜こうとする不良少年の物語だった。梶原が少年時代を送ったのは戦後まもない東京。貧しさと混乱の渦巻く中で、強き者に立ち向かった姿がジョーのモチーフだったという。

息子の城が語る。

小学校1年生のときに、上級生の4年生を闇討ちしたとか、自分自身も投影させているというのはあると思いますね。まだ敗戦の空気が覚めやらぬ日本人が一時誇りを失っていたときであったかもしれません。そういった中で、反骨的な精神が生まれていったのだと思います。

1960年代になると、東京オリンピックをきっかけに、高度経済成長が加速。世界第2位の経済大国となり、戦後の面影は次第に消えていった。そんな東京の片隅に経済発展から取り残されたような街があった。山谷の“ドヤ街”。東京の発展を陰で支えていた日雇い労働者たちが貧しさにあえいでいた。「あしたのジョー」の舞台を構想していたちばは山谷に潜入取材を重ねていた。

そして、この場所からジョーの物語を始めることを思いついた。

戦争が終った後の傷だらけの人間がいっぱいたむろしているという、こういう街でいろんな人間の触れ合いがあってドラマが始まるという、僕自身がその世界を作っていくために導入部みたいなものがどうしても必要だったんです。

(「ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日」より)

経済発展がもたらす豊かさに酔いしれた時代。ちばと梶原は次第に忘れ去られていく人間の触れ合いや反骨精神をジョーの物語にこめようとした。

1967年12月15日、週刊少年マガジンで「あしたのジョー」の連載がはじまった。

舞台は発展めざましい大都会、東京。その片隅に吹き溜まりのような街がある。この街に流れ着いたのが矢吹丈。ボクサー崩れの丹下段平と出会い、ボクシングと巡り合う。連載当初から話題を集め、「少年マガジン」の看板作品となる。悪事を働き、少年院へ送られたジョー。脱走を試みたジョーの前に立ちはだかったのが力石徹だ。

自由を奪われるのは我慢ならねえが、負けるってことはもっともっと我慢ならねえ。

すでにプロボクサーだった力石に、ジョーは挑戦を誓う。

つづく