【ラストデイズ 忌野清志郎×太田光】きっと天国で誰にも歌えない歌を歌っているだろう(下)
NHK総合の録画で「ラストデイズ 忌野清志郎×太田光 誰にも歌えない歌」を観ました。(2014年5月2日放送)
きのうのつづき
清志郎にとって大きな分岐点を迎えたのは、86年、35歳のときにロンドンにレコーディングに行ったときだった。現地のTHE BLOCKHEADSという音楽グループとロックンロールを通じて心がつながった。彼らはサッチャー政権批判やフォークランド紛争をテーマに時代を歌っていた。「どんなことを歌ってもいいんだ!」。清志郎は開眼する。「Rockin on JAPAN」04年のインタビュー。
自分の考えていることとか、自分の気持ちはガンって外に言ってないと駄目だなと思ったの。すごい面白かった。だから、分岐点ですよ。僕の人生の。
88年1月、「Covers」のレコーディングがはじまった。
「風に吹かれて」
どれだけニュースを見たら 平和な日が来るの? その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ
「ラブミーテンダー」
何言ってんだー ふざけんじゃねえ 核などいらねえ
「明日なき世界」
政治家はいつもゴマカシばかり 法律で真実は隠せやしねえ そりゃデモをするだけで平和がくるなんて甘い夢など見ちゃいねえさ
レコーディングは友人にも呼びかけ、参加してもらった。泉谷しげるが語る。
不思議なアルバムだよ。俺も大反対して。参加はしているんだけど。歌詞が余りに直接的。「お前、そういう方向は良くないよ」ってケンカになりましたね。文化人になっちゃダメだよな。あくまで悪戯小僧でいなきゃいけない。滅茶苦茶やるような人でも、ファンはそこが好きなんだから。政治に口出しするなじゃない。口出ししていい。だけど、もっとおちょくってほしい。
でも、参加はしました。気分はわかるから。原発はなんであるんだ?その気分はわかるから。参加しつつ、そういう方向に行かない方がいいよって。
RCサクセションの仲井戸麗市も語る。
ああいう社会性を持ったテーマのアルバムだったから、俺個人の見解は簡単に言うとヘビーでした。清志郎がああいうことを感じて、社会性のあるメッセージをしていくことに関して。「君が好きだ」という歌とまた違う角度だから。
清志郎の音楽にもうひとつ影響を与えたのが、実母・富貴子さん(享年33)の遺品から写真などのアルバムが見つかったことだ。結婚して間もなく、夫を戦争で亡くしたこともわかった。アルバムにあった歌だ。
帰らざる人とは知れど わがこころ なほ待ち侘びぬ 夢のまにまに
取材で発見された清志郎の手記に「彼女に関すること」と題し、こう書かれている。
彼女は激しい恋をして、そして、彼氏と結ばれた。ペラペラの薄っぺらな紙に夫の死亡が書かれていた。彼女はもう諦めていたのかもしれないけど、あっちこっちに行ったり、帰ってきた夫の仲間に消息を聞いて回った。夫の無事を祈ってたんだ。彼氏のことを想って、歌を詠んだりもした。
このことが清志郎の背中を押して、「Covers」は一カ月で完成した。デビューから18年、辿り着いた答えだった。しかし、先行シングル発売の2週間前に清志郎はレコード会社に呼び出され、通告を受ける。「あのアルバムは会社の方針として発売できない」。理由を訊いても、「中止」の一点張り。清志郎の思いは打ち砕かれた。
88年「プレイボーイ」から。
呆れましたよ。なんでだよ…どうしてだよ、たかが歌だろ。それが企業にとってどうとか、そんなふうに捉えられちゃうというのは、ちょっと心が狭いんじゃないか…。それが日本の常識ってやつか…。
結局、「Covers」は88年8月15日、別のレコード会社から発売された。
太田は放送当時49歳。1本の長編映画の制作という挑戦をしていた。表現者として社会にどう関わり合うべきか、葛藤していた。太田は語る。
一番創造性が高いのは、物語を作って、その中にメッセージを押し込めること。クリエーターとしてはちゃんと言葉をオブラートに包んだり、何かに喩えたり、作品性を高める方が表現者としては真っ当だと思うし。でも、そんなことやってらんないよということもある。野暮とわかっていても、言わずにはいられないときもあって、「Covers」が野暮だというのに、俺が言えた義理じゃないんだけど、もっと俺の方が野暮なことやってきているから、その気持ちもわかるんだけどね。
それ以降、清志郎は時に政治を歌い、時に恋愛を歌う。世の中にはまだ歌われていないことが山ほどある。それを探す清志郎のラストデイズがはじまった。子どもが生まれたら、家族の歌を。自転車が趣味になったら、サイクリングの歌を、という風に。感じること、感じたままに歌にした。
そして・・・55歳で突然のがん宣告。その2年後の復活コンサートでは、自分だけの歌を追い求めた。09年5月2日、マイクを置いた。
仲井戸麗市が語る。
残念。清志郎さんの60歳過ぎを見たかった。最近は、そういう思い方をやめるようにしているんですが。58年の人生だった、は「若すぎる」のではなく、「たっぷりと58歳をやったんだ」という風に友人として思うべきだと。RCをこうしたい、といつも考えていて、浪漫のあった奴ですね。今頃、そう思っている。
太田が「忌野清志郎を探す」取材を終えて語った。
モノを作る人というのは鈍感になっちゃうと、いいものを作れないんだろうな、と。清志郎さんもそうだったろうし、本当に敏感に繊細に傷ついたり、優しいでしょ。もうちょっと歳をとったら鈍感になりたいなと思ったんだけど、それは表現者としては落ちていくということだよね。表現を研ぎ澄ましていくんだったら、敏感なままで、子どものままで、傷つきやすいままでいるべきだしね。でも、それは苦しいだろうなと思うね。
番組のラストコメントが素敵だった。
いま、清志郎なら何を歌うのだろう。確かなことがひとつある。清志郎は他の誰にも歌えない、自分だけの歌を歌っているはずだ。
おわり