【桂米朝七回忌】落語のユーモアとか洒落っ気とかいうものは、余裕から生まれてくるものです。その余裕が取り戻されることを願う。
NHK-Eテレの録画で「ETV特集 洒落が生命 桂米朝「上方落語」復活の軌跡」を観ました。(2015年6月20日放送)
上方落語中興の祖とも言われる米朝師匠が89歳で亡くなったのが15年3月19日なので、その3カ月後の放送である。若干急ごしらえで制作された印象を否めないが、人間国宝にまでなった米朝師匠の若き日からの落語に対する情熱が伝わってきて、興味深かった。それらを何点か、まとめて書き留めておきたい。(以下、敬称略)
米朝は学究肌という印象が強かったが、祇園でもよく遊んでいたという。でも、それはただ遊興に耽るというものではなく、お座敷遊びから歌舞音曲を習得していったという芸熱心に生じるものだった。お座敷に呼ぶのは皆、年輩の芸妓ばかり。高座で「芸者3人呼んだら年齢合計200を超します。散財してんのやら、敬老会やってんのやら」というマクラが可笑しかった。
米朝に呼ばれた芸妓さんの証言。贔屓の役者の声色が得意だった。15代目市村羽左衛門。「みんな、自分の芸に入ってんやから」。「勧進帳」の富樫が好きで、自ら余興で演じたという。「落語は話芸の吹き寄せや。歌舞伎や文楽、能に狂言、何でも知っとかんとあかんのや」(「落語と私」)。
昭和22年の入門。当時、上方落語は窮地に立たされていた。漫才ブームに押され、また大御所と呼ばれた師匠が次々と亡くなった。二代目桂春団治、五代目笑福亭松鶴、そして師匠の桂米團治。噺家がたった10人、滅びる寸前だった。落語は口伝の芸だ。これでは途絶えてしまう、と危機感を持った米朝は一線を退いた噺家を訪ね歩き、ネタの聞き書きをした。「こんないいものを滅ぼしたら勿体ない。20でも、30でも、体に残せたらと、熱心に教えて頂いた」(生前のインタビューより)
いかにして、上方落語を復活させたか?一例を挙げていたのが興味深かった。文の家かしく師匠から聞き書きした、「天狗さし」。竹の道具で天狗を捕まえるという噺だ。サゲは「お前も鞍馬の“天狗さし”か?」「いや、わしは五条の念仏さしじゃ」。この「念仏ざし」というのがわからなかった。かしく師匠もわからなかった。米朝はあちこちに訊いて回った。すると、ある道具屋から「見つかりました」という手紙とともに「念仏ざし」が送られてきた。江戸時代、京で使われていた竹のものさしだった。それで米朝は合点がいき、昭和36年にこの「天狗さし」を関係者を前に披露した。その録音テープも残っていて、番組で流されたのがよかった。
米朝こと中川清は、小学校の頃から「落語の虫」だった。ラジオにかじりつき、覚えた落語を謝恩会で披露したと同級生は語る。「それは、もう流暢でした」。道頓堀にあった寄席には父に連れられて初めて体験した。子どもにとっては禁断の世界に踏み入ったような、楽しくも怪しい世界だった。以来、父の持っていた落語全集を読みふける。
落語を知って、私は子ども心にあらためて、大工さんや植木屋さんの仕事を畏敬の念をもって見直した記憶があります。権威や肩書や財産などで人間の価値が決まるものではない。ということなんかは落語で知らず知らずに感得していったのです。(「落語と私」)
昭和18年に進学のため上京。名人の芸に触れようと寄席通い、落語三昧の日々。しかし、世の中は戦況が悪化し、昭和20年に米朝も学徒動員に。が、暫くして腎臓炎を患い、陸軍病院に入院。敗戦の色が濃くなった頃、病院のベッドの上で戦友たちに「立ちきれ線香」を披露したという。落語は人を笑わせるだけでなく、生きる力を与える。そう米朝は考えるようになった。そして、昭和22年に米團治に入門した。
こんな人が町内にいたら、みな助かるとか、こんな人が大勢いたら、世の中はもっと良くなるだろう…と思われる人はたくさん落語国にいます。大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事に過ぎて、やがて死ぬんだ、それでいい。落語は現世肯定の芸であります。(「落語と私」)
昭和30年代、豊富なネタと洒落た語り口で人気を獲得。40年代には独演会は満員御礼が続いた。関西のテレビやラジオで活躍した。そんなとき、「東京のお客さんに聞かせたい」と企画を持ち込んだのが、矢野誠一だ。できたばかりの紀伊國屋ホールを会場にしたいと構想した。上方落語が東京で成功した例はなかった。あの初代桂春団治でさえ、敬遠していた。
上方落語、へえまだ滅びずにあったんかい、まあそんなものでした。東京では私なんか無論、誰にも知られない若造でしたが、ごまめの歯ぎしりしながら声高に上方落語を知ってくれ聞いてくださいとどなり続けたのです。(「増補改訂版 米朝落語全集」)
しかし、決意を固めた米朝は演目に大ネタ「地獄八景亡者戯」を選び、再構築した。こんなに初めからしまいまで笑いを盛り込んだ賑やかなスケールの大きいい噺はありません。上方屈指の大物と言えるでしょう。矢野は「会を企画したとき、周囲の反応は鈍かった」という。だが、上方には「はめもの」という武器がある。お囃子を効果的に使って珍道中をより面白く聞かせた。
死出の旅 芸者舞妓を引き連れて 来てみりゃ亡者も賑わいの 惚れたまことの極楽や 昭和42年5月2日に紀伊國屋ホールで開かれた「桂米朝 上方落語の会」は大成功。東京の落語界にも大きな衝撃を与えた。
寄席の楽しい雰囲気は余裕から生まれてくるものです。落語のユーモアとか洒落っ気とかいうものは、この余裕から生まれてくるものです。落語家は原点に戻って、先人から伝えられた寄席の楽しさを滅ぼしてはならない。(「落語と私」)
桂米朝七回忌。僕が国立劇場の落語研究会で80年代後半から90年代初頭に聴いた「立ちきれ線香」「はてなの茶碗」「三枚起請」などは今も忘れられない。それは江戸とか上方とかを超越した高座であったと記憶している。