【文菊のへや】抜擢真打昇進から8年余り。“自分の落語”が出来上がって、古今亭文菊は僕の中で赤丸急上昇(中)

タケノワ座配信で「文菊のへや」第六夜から第十夜まで観ました。

きのうに続いて、古今亭文菊師匠の魅力を演目から見ていきます。

第六夜「青菜」

このテーマはお屋敷暮らしへの憧れと現実。女房に「お前さんくらい感心する人はいないよ」と言われてしまう植木屋だが、終始マイペースで“お屋敷ごっこ”を敢行するところが可愛い。

それと、植木屋が自分の女房とお見合いで結婚したときのことを思い出すのも面白い。「鈴木の旦那にいっぱい食っちゃったよ。動物園のカバの檻の前で待ち合わせして、シロクマの檻の前で甘食食いながらお見合いだ。どんな女だって、よく見えらあ」。

女房も負けていない。「お前さんは婚礼のとき、袴を履いていたけど、立ち上がったら、膝小僧までしかなかった。なんでも、大家の坊ちゃんのを借りたそうじゃないか」。このあたりを割愛する噺家が多いけど、植木屋夫婦のイメージを膨らませるのに、このエピソードは有効だ。

第七夜「死神」

金をこしらえられない亭主に女房は「できるまで帰ってくるな」と追い出すが、困った亭主があてもなく歩いて行きついたのが桜の木の下というのが新鮮だった。花びらが散ってきた。「季節はずれの桜だな。陰気だなあ」と言って、いっそ死んでしまおうと思う必然性を出している。

死神に医者になって儲ける呪文を教わった亭主は、もう有頂天だ。妾をこしらえ、上方見物。女房と息子は追い出してしまう。だが、金の切れ目が縁の切れ目。豪遊の果てに、女に捨てられてしまう。もう一度、医者で儲ければいいと思うが。

越後屋に千両、二千両、三千両と礼金を釣り上げられ、ついつい侵してしまったご法度の枕元。死神が再び現れ、「お前は三千両に目がくらんで寿命と取り替えちまったんだ」。金の持つ魔力、魅力、怖さが滲み出ていた。

第八夜「お見立て」

「今夜はご陽気に女郎買いの噺を」と。配信で廓噺はいかがなものか、と考えたそうだが、気にすることはない。「落語はファンタジー。夢の国へご案内」と言っていたが、それでいいと思う。

喜瀬川花魁のわがままには困ったもんだ。杢兵衛大尽との間を何度も往復する喜助に同情する。お大尽だって戸惑うよなあ。最初は「喜瀬川花魁、お待ちかね!」と言われて入ったのに、「入院している」となり、「死んじゃった」となるんだもの。

コッケコ!と喜助を呼び、喜瀬川がオッチンダと喜助が泣き真似をすると「ニャートルナ?!」。これで信じて、「オットセイがお産している」ように泣き叫ぶ杢兵衛大尽も可愛いではないか。

第九夜「目黒のさんま」

落語は「殿様も人間。町人と同じ感覚をもって然るべき」という精神が流れているように思う。サンマは下衆(げす)の食べる「下魚」とされていたが、よっぽど鯛の焼き冷ましより美味しいことに気づくのは当たり前。旬の食材をストレートな調理方法で、出来立てを食べることほど美味いものはない。

「サンマ、目通り許す」で、出てきた秋刀魚の塩焼き。プシュプシュ、ジュージューという擬音の使い方がよく表している。長らかなる、黒やかなる美味。殿様にとってはさぞ新鮮だったろう。

本場房州から日本橋の河岸に届いた新鮮な秋刀魚も、蒸して脂を抜いて、小骨を毛抜きで抜いて、ツミレにして、どこが美味かろうか。

第十夜「火焔太鼓」

古今亭のお家芸。志ん生⇒圓菊⇒文菊だろう。味も素っ気もない噺をギャグ沢山にして爆笑落語にした志ん生師匠のスピリッツをそのまま受け継ぎつつも、自分の工夫をきちんと盛り込んで、現代に通用する噺にしている。

小野小町が二宮金次郎に宛てた手紙。埃をはたくと、太鼓がなくなっちゃうよ。バカ目と申しまして、おつけの実にしかならないんです。時代を請け負っている太鼓なんです。一旦売った品物は二度と引き取らないというのは、お祖父さんの代からの決め式。座り小便したら承知しないぞ。志ん生スピリッツ!

300両を50両包みで一個ずつ渡されたときの興奮ぶりは、甚兵衛さんよりも女房の方が大きくて面白い!