橘家文蔵「鼠穴」 全幅の信頼を置いている番頭にも“まさか”のことがあるかもしれない。経営者は気苦労が絶えなくて当たり前だと思う。
らくごカフェで「ザ・プレミアム文蔵」を観ました。(2020・12・05)
橘家文蔵師匠は、コロナ禍においていち早く「文蔵組」を立ち上げ、芸人さんとの幅広い交流を活かして、活躍した今年の功労者だ。その文蔵師匠が定期的に開いている自主公演の独演会がこの「ザ・プレミアム文蔵」で、コロナ自粛期間を経て、10月に再スタート(6月休止)、「文七元結」と「粗忽長屋」だった。
この日は「睨み返し」と「鼠穴」。前者は、借金の言い訳屋が登場する前の、亭主が薪屋に対して、借金を返さなければいけない立ち場なのに居直ってしまうところが出色だった。「返してもらうまで一歩も動かない」と言う薪屋に、薪ざっぽうを持ってきて、「一歩も動かないんだな。動くなよ」と脅し、最後には借金は払ったことにしてしまって、受け取りまで要求し、釣りまで奪い取るところなど、あの強面で演じられると、とても迫力があっていい。
「鼠穴」はこれまでも何度も聴いているが、ますます良い。竹次郎が3文しか「元手」を貰えなかった悔しさをバネに成功し、三つの蔵もある立派な商店を構えるまでになった10年後。兄のところを訪ね、「元手」の3文と「利子」の5両を返す場面の兄弟のやりとりが好きだ。
兄が「3文しかなかったときは、さぞ怒ったろう」と謝る。でも、それは茶屋酒の味が抜けていない弟に対して心を鬼にした考えがあってのことだと説明する。申し訳なかった、目が覚めたらいくらでも元手を貸そうと思っていた。でも。お前も強情だから、頑固に頑張った。よく頑張った、と労う。
弟である竹次郎も「そういう了見の3文に感謝したい」という気持ちでいっぱいだ。そういう兄の深謀遠慮があったからこそ、今日の成功があるのだという感謝だ。「よかったなあ」。普通の兄弟なら肩を抱き合って喜びあうところだが、それをしないのも、血の通い合った兄弟愛の素晴らしさをかえって引き立てている。
竹次郎が見る夢の悲惨さは、聴き手にとって辛い。だからこそ、夢と判ってからの安堵が効くわけだが、あまりにも残酷だ。火事。女房の病気。奉公人が去る。転がり落ちる人生。最後は娘の花を吉原に身売りするが、それも巾着切りに奪われ。この夢の中の兄の鬼畜ぶりもすごい。元手なんかやれるか、と突き放す。
なぜ、そんな夢を竹次郎は見たのだろうと思いを馳せる。鼠穴が気になってしかたなかった。番頭には十分言い渡してあったが、どこかで心配していた。それは大きな商家の主人として、経営者として当然のことだと思う。大店を切り盛りする人間には気苦労、心配事がさぞ多かろう。それが、残酷な夢となって表れたのではないか。
番頭には全幅に信頼を置いている。だけれども、人間は誰しもがパーフェクトではない。どこかで100%任せきってはいけないという思いが経営者にはあるのだろう。その象徴が鼠穴なのではないか。
ハッピーエンドになって、救われる噺だから、僕は大好きな噺である。仕事は人と人との縁や繋がりや信用で成り立っている。だから、人とのパイプを大切にしなければいけない。信用商売。どんな大企業だって、一人一人が信頼し合って働いて機能している。それは人間である。けして歯車ではない。歯車と考えている経営者なり、上司がいたら、そこで信頼関係は崩れ、良い仕事はできない。芸は人なり、と同様、仕事はみんな、人なりと思うのである。