壽 金馬改メ三遊亭金翁襲名 91歳現役、そのかくしゃくとした高座は落語界の至宝だ。
鈴本演芸場で「壽 五代目三遊亭金馬襲名披露興行」を観ました。(2020・09・25)
僕の両親の世代で言うと、「お笑い三人組」で一龍斎貞凰、江戸家猫八とともにお茶の間の人気者になった三遊亭小金馬。そして、三代目金馬没後に、四代目を継いだ。僕は小学生時代に三代目金馬の「居酒屋」「目黒のさんま」「孝行糖」そして「藪入り」などを擦切れるくらいレコードで聴いた。四代目の高座は、大学時代に寄席に行くようになってからで、トリというよりも15分高座で珍しいネタを聴くたびに、この演目の名前は?と東大落語研究会編の増補落語事典で調べていたものだ。
四代目は日本演芸家連合の会長を04年から17年まで務めた。国立演芸場創設への国への働きかけを積極的おこなった功績は大きい。毎年ゴールデンウイークの大演芸まつり@国立演芸場では10日間毎日口上に並んで挨拶していたのはつい最近のことだ。もう10年近く前になるだろうか、「月例三三独演」の正月特別企画で、ゲスト出演され、「按摩の炬燵」をかくしゃくと演じていたのも鮮明に覚えている。
昭和4年(1929)生まれの91歳。12歳で三代目に入門しているから、来年で芸歴80年になる。もちろん、戦中の落語界を知っている唯一の存在で、去年、「すっぴん!」インタビューにご出演いただき、NHKが内幸町にあった頃からの思い出などをたっぷりと語っていただいた。事前取材で新宿のご自宅に伺ったときのお話しを含め、僕にとっても忘れられない財産となった。
息子である金時師匠に金馬という名跡を五代目として譲り、自らは金翁という隠居名を名乗ることになった。小金馬から金馬、そして金翁と昭和、平成の落語、いや芸能の生き字引としてのもっともっと長生きしてほしいし、この日もそうであったが、まだまだ衰えを知らぬ高座は演芸界の宝物で、無理のない範囲で高座に上がり続けてほしいと切に願う。
春風亭一花「やかん」/鏡味仙三郎社中/三遊亭金八「桃太郎」/入船亭扇辰「たらちね」/柳家さん喬「時そば」/立花家橘之助/林家正蔵「松山鏡」/鈴々舎馬風「楽屋外伝」/柳亭市馬「芋俵」/アサダ二世/春風亭一之輔「悋気の独楽」
ここで中入り(さん喬師匠と橘之助師匠との間に換気のための休憩もあった)で、幕が開くと口上。並びは、下手から
正蔵(司会)、権太楼、さん喬、金馬、金翁、馬風、市馬
正蔵、母(海老名香葉子)が根岸に住まうにあたって三代目の根岸の師匠に世話になり、四代目は父(三平)とともにテレビ黄金期にご一緒させていただき、五代目は同い年でともに勉強した。権太楼、三代目はラジオの時代で歯切れの良い落語に夢中になった、四代目「抜け弁天の師匠」からは「佃祭」「くしゃみ講釈」「ちりとてちん」ほか多くのネタを教わった、五代目は子どもの頃は「僕、野球選手になる!」と言っていたんですよ。
さん喬、四代目のおかみさんが出身地である新潟三条で「真打披露やりなさいよ」と口を利いてくれ、袴や帯までいただき、大変お世話になった。五代目には逆によく稽古をつけてあげ、虎屋の羊羹をもらった。馬風、数年前から「もう譲ったらどうだい?」と言っていた、歌舞伎で言えば團十郎や菊五郎に相当する名前、弟子は師匠の名を残せるが、師匠は弟子の名を残せない。五代目金馬が名馬になることが、恩返し。市馬、この襲名が親孝行のスタート、来年で芸歴80年になる、いつまでも噺家の標本、いや、もとい、お手本となっていただきたい。
最後に金翁が、死ぬまで金馬のつもりだったが、そうもいかなくなった。三代目からは、いつまでも「お笑い三人組」ではいられないのだから、稽古しろと言われ、一生懸命稽古した。息子に譲ったあとは気楽に生きていきたいと。
江戸家小猫/柳家権太楼「つる」/三遊亭金翁「リハビリ体験記」/林家正楽/三遊亭金馬「柳田格之進」
金翁師匠、落語は死ぬまでできるもの、だから稽古しなさい、という三代目の教えを改めて言って「噺家でよかった」と。その台詞が胸に沁みた。脳梗塞を患い、リハビリ専門病院で懸命にリハビリした体験を詳しく語る。そのかくしゃくと喋る姿に心打たれる。理学、作業、言語療法の三種類を歯を食いしばって、奇跡の生還をユーモアたっぷりと。
赤巻き紙、黄巻き紙、青巻き紙。東京特許許可局は言えないけど、「ガマの油」の口上はすぐに言えた。病院の入院患者さんは皆さん、「金馬さんですよね?本人ですよね?」とわかってくれたが、医師や看護師さんは若いから「落語家なんですか?」と知らないと。ある日、朝起きたら身体が動かない。医師いわく「リハビリ疲れです」。女房に訊いたら、「歳を考えなさい」。皆さん、脳梗塞やるなら、早いうちですよ!
最後までユーモアを忘れない、噺家魂が沁み込んだ高座に喝采を送った。