【アナザーストーリーズ】オシムの涙~サッカーW杯 知られざる闘い~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ オシムの涙~サッカーW杯 知られざる闘い~」を観ました。
僕はサッカーに詳しくない。全くの素人である。外国人の日本代表監督として頭に浮かぶのは、ドーハの悲劇のオフト監督、それに日韓共催のときのトルシエ監督くらいだろうか。ただ、オシム監督が2006年に就任したが、脳梗塞に倒れて、岡田武史が再度監督復帰したことは覚えている。民族紛争で荒れたユーゴスラビア、そして後にボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、イビチャ・オシムが政治とスポーツについて大変な苦悩と献身をしたということは、恥ずかしながら全く知らず、とても心に滲みるドキュメンタリーだった。
第二次世界大戦が終わると、1945年に社会主義国家としてユーゴスラビア連邦人民共和国が生まれた。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア。6つの共和国からなり、3つの宗教、4つの言語、5つの民族のモザイク国家だった。ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身のオシムは86年にユーゴスラビア代表監督に就任した。
だが、89年にベルリンの壁崩壊。その余波はユーゴスラビアにも直撃し、各共和国は分離独立を主張した。オシム監督は民族など関係なく、実力主義を貫き、勝利のための選手編成をおこなった。スロベニアのスレチコ・カタネツの抜擢はマスコミの批判を浴びた。しかし、オシムは「スポーツにおいて政治的配慮は必要ない」とはねのけた。
クロアチアのザグレブで開催された親善試合、オランダ戦の前の国歌斉唱。地元クロアチアの人たちがブーイングを起こし、「俺たちは独立を望んでいる!」と主張した。90年ワールドカップ、イタリア大会ではグループリーグを突破し、民族の共存と友情を信じて選手たちは戦った。決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では、セルビア人のドラガン・ストイコビッチがゴールを決め、勝利。ストイコビッチはまずオシムのところに行って抱き合った。民族対立が激化する中、チームメイトの友情を訴えたかったのだ。準々決勝のアルゼンチン戦。延長戦に入っても両チーム得点できず、PK戦に。ストイコビッチはゴールを外し、敗退した。だが、「最高の思い出だ」と振り返る。
選手たちが帰国すると、祖国では独立運動キャンペーンが繰り広げられ、「これ以上、プレイできない」と主力選手たちが次々とチームを離れた。91年には内戦に突入。ボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言をし、オシムの家族のいるサラエボも戦火に包まれた。
92年5月22日。オシムは記者会見に臨む。「なぜ私が監督を辞めるのか、理由はお分かりのはずだ。サラエボのために私ができる唯一のことは監督を辞任すること。サラエボは私が生まれた故郷なのだ」。民族分断への無言の抗議に涙を流した。そして、ユーゴスラビア代表チームは解体した。
ストイコビッチは92年のヨーロッパ選手権、94年のワールドカップ、96年のヨーロッパ選手権と3回も活躍の場を失ったと嘆いた。オシムもヨーロッパチームを転々とし、やがて日本にやって来る。2003年、ジェフ市原の監督に就任、Jリーグ優勝へと導いた。06年に日本代表監督になるが、翌年に脳梗塞で倒れてしまう。
内戦が終結した翌年の96年、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表チームが誕生する。だが、サッカー協会はクロアチア系、ムスリム系、セルビア系の3つの民族に分断され、16カ月ごとに輪番制で会長に就任するという有り様だった。98年フランス、02年日韓、06年ドイツとワールドカップは予選敗退が続いた。そして、10年南アフリカ大会出場を目指すヨーロッパ予選の最終戦。司令塔のセルビア系のズベタン・ミシモビッチが欠場し、結果はワールドカップへの切符を逃した。このとき、クロアチア系のミコスラヴ・ブラジュビッチ監督は「ミシモビッチはセルビア系指導者のドディックから圧力を受けて大事な試合をボイコットした」とコメントする。だが、それは事実無根だった。
2011年、ボスニア・ヘルツェゴビナは最大の危機を迎える。FIFAが「スポーツと政治は切り離せ。1人の会長の任期は4年にするように。それが出来ないなら、国際試合への参加は認めない」と通告したのだ。
この危機をどう打開するか。白羽の矢が立ったのは、オシムだった。脳梗塞を抱えながら正常化委員会のトップとなり、ユーゴスラビア代表でキャプテンを勤めたファルク・ハジベビッチらとともに「ボスニア国民と世界に対して責任がある。このみっともない困難な状況から脱出しよう」と奔走した。サッカーのためなら何でもやる、サッカーの未来のために。
セルビア系指導者のミロラド・ドディックを説得する。「サッカーはボスニアの最も大切な宝物だ。それをあなたが潰してしまっていいものか」。FIFAへの回答期限の5日前に「会長一本化」が決まった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表は2014年ワールドカップ出場に向けて、5度目の挑戦をする。ヨーロッパ予選では快進撃を続けた。リトアニア戦。ムスリム系のエディン・ジェコがセルビア系のズベズダン・ミシモビッチのパスを受け、ゴールを決める。そして勝利し、ワールドカップ・ブラジル大会への出場を決めた。協会顧問として観戦していたオシムは涙を流した。92年の監督辞任のときは抗議の涙だったが、今回は歓喜の涙だ。実に21年ぶりの涙である。
オシムへのインタビューが素晴らしい。ボスニアは一つになったか?という質問に対し、こう答えた。
まだ、まだ。それは言い過ぎだ。一つになっているなら上出来だ。残念ながら、まだだよ。ボスニアに何かできることがあるという自信を取り戻したにすぎない。代表チームは多民族で構成されている。協会の委員もコーチも観客もサポーターも多民族だ。本当はみんな共存を望んでいる。
イビチャ・オシムは2022年、逝去。80歳だった。ボスニア・ヘルツェゴビナは14年のブラジル大会以降、ワールドカップ出場を果たしていない。民族が互いの壁を乗り越え、ボスニアサッカーが花開くには、まだ時間が必要だというラストコメントが胸に響いた。

